第2章 「境界線」第1話「海の異物」
暗い海の底で、
人魚が笑った気がした。
その瞬間。
碧は反射的に水面へ向かっていた。
肺が苦しい。
勢いよく海面へ顔を出し、
大きく息を吸う。
「はっ……!」
荒い呼吸が、
静かな夜へ溶けていく。
心臓がうるさい。
碧は濡れた髪をかき上げながら、
震える呼吸を整えた。
今のは何だ。
見間違いか。
幻覚か。
いや。
違う。
あの瞳は、
確かに碧を見ていた。
深い青。
そこに混ざる、
金の光。
そして、
人間じゃありえない尾びれ。
碧はゆっくり振り返る。
夜の海は静かだった。
波が揺れているだけ。
何もいない。
けれど。
視線だけが残っている気がした。
碧は堤防へ戻り、
乱れた呼吸のまま座り込む。
濡れたTシャツが肌に張り付く。
指先が冷たい。
夢じゃない。
そう思った瞬間。
――ちゃぷん。
すぐ近くで、
水音が鳴った。
碧が顔を上げる。
海面が揺れている。
月明かりの中。
ゆっくりと、
“それ”が現れた。
白に近い金髪。
異様に白い肌。
水滴を纏った睫毛。
そして。
夜の海みたいな青い瞳。
人間離れした整った顔が、
静かに碧を見つめている。
碧は息を呑んだ。
綺麗だと思った。
それが一番最初の感情だった。
怖いくらいに。
男は海面へ腕を乗せたまま、
何も言わない。
月光が、
濡れた髪を淡く照らしている。
碧は喉を鳴らした。
「……お前」
声が掠れる。
男は答えない。
ただ、
じっと碧を見る。
観察するみたいに。
値踏みするみたいに。
その視線に、
なぜか目を逸らせなかった。
「……人、なのか」
聞いた瞬間、
男の瞳がわずかに揺れた。
それが、
笑ったようにも見える。
けれど次の瞬間には、
また静かな無表情へ戻っていた。
「お前は」
低い声。
海の底みたいに冷たい。
「なぜそんな顔で泳ぐ」
碧の呼吸が止まる。
またその言葉。
“そんな顔”。
自分がどんな顔をしているのか、
碧には分からない。
男はゆっくり碧へ近付く。
水面が静かに揺れる。
その動きは、
泳ぐというより、
海そのものが流れているみたいだった。
碧は無意識に後ずさる。
でも目は離せない。
近付くほど分かる。
こいつは、
人間じゃない。
肌の白さも。
瞳の色も。
息遣いすら、
どこか違う。
人間の体温が感じられない。
男は碧のすぐ近くで止まった。
波の音だけが響く。
静かな沈黙。
やがて男は、
碧の濡れた前髪へ触れかけ――
ぴたりと手を止めた。
まるで、
触れてはいけないものを見るみたいに。
そのまま静かに呟く。
「……海の匂いがする」
碧は目を瞬かせた。
意味が分からない。
男はそれ以上何も言わない。
ただ碧を見つめる。
ずっと前から、
知っていたみたいな目で。
風が吹く。
月光が揺れる。
碧はようやく口を開いた。
「お前……何なんだ」
その瞬間。
男の青金の瞳が、
ゆっくり細められた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




