第1話「海の異物」
暗い海の底で、
人魚が笑った気がした。
その瞬間。
碧は反射的に水面へ向かっていた。
肺が苦しい。
勢いよく海面へ顔を出し、
大きく息を吸う。
「はっ……!」
荒い呼吸が、
静かな夜へ溶けていく。
心臓がうるさい。
碧は濡れた髪をかき上げながら、
震える呼吸を整えた。
今のは何だ。
見間違いか。
幻覚か。
いや。
違う。
あの瞳は、
確かに碧を見ていた。
深い青。
そこに混ざる、
金の光。
そして、
人間じゃありえない尾びれ。
碧はゆっくり振り返る。
夜の海は静かだった。
波が揺れているだけ。
何もいない。
けれど。
視線だけが残っている気がした。
碧は堤防へ戻り、
乱れた呼吸のまま座り込む。
濡れたTシャツが肌に張り付く。
指先が冷たい。
夢じゃない。
そう思った瞬間。
――ちゃぷん。
すぐ近くで、
水音が鳴った。
碧が顔を上げる。
海面が揺れている。
月明かりの中。
ゆっくりと、
“それ”が現れた。
白に近い金髪。
異様に白い肌。
水滴を纏った睫毛。
そして。
夜の海みたいな青い瞳。
人間離れした整った顔が、
静かに碧を見つめている。
碧は息を呑んだ。
綺麗だと思った。
それが一番最初の感情だった。
怖いくらいに。
男は海面へ腕を乗せたまま、
何も言わない。
月光が、
濡れた髪を淡く照らしている。
碧は喉を鳴らした。
「……お前」
声が掠れる。
男は答えない。
ただ、
じっと碧を見る。
観察するみたいに。
値踏みするみたいに。
その視線に、
なぜか目を逸らせなかった。
「……人、なのか」
聞いた瞬間、
男の瞳がわずかに揺れた。
それが、
笑ったようにも見える。
けれど次の瞬間には、
また静かな無表情へ戻っていた。
「お前は」
低い声。
海の底みたいに冷たい。
「なぜそんな顔で泳ぐ」
碧の呼吸が止まる。
またその言葉。
“そんな顔”。
自分がどんな顔をしているのか、
碧には分からない。
男はゆっくり碧へ近付く。
水面が静かに揺れる。
その動きは、
泳ぐというより、
海そのものが流れているみたいだった。
碧は無意識に後ずさる。
でも目は離せない。
近付くほど分かる。
こいつは、
人間じゃない。
肌の白さも。
瞳の色も。
息遣いすら、
どこか違う。
人間の体温が感じられない。
男は碧のすぐ近くで止まった。
波の音だけが響く。
静かな沈黙。
やがて男は、
碧の濡れた前髪へ触れかけ――
ぴたりと手を止めた。
まるで、
触れてはいけないものを見るみたいに。
そのまま静かに呟く。
「……海の匂いがする」
碧は目を瞬かせた。
意味が分からない。
男はそれ以上何も言わない。
ただ碧を見つめる。
ずっと前から、
知っていたみたいな目で。
風が吹く。
月光が揺れる。
碧はようやく口を開いた。
「お前……何なんだ」
その瞬間。
男の青金の瞳が、
ゆっくり細められた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




