第5話「海に呼ばれる」
夜の海は静かだった。
波の音だけが、
暗い海岸にゆっくり響いている。
深海碧は、
堤防へ腰を下ろしたまま海を見つめていた。
大学の練習帰り。
身体は疲れているはずなのに、
眠る気になれなかった。
だからまた、
海へ来てしまう。
白いTシャツの袖を、
潮風が揺らす。
遠くの海は暗い。
けれど碧には、
その暗さが不思議と怖くなかった。
昔からずっとそうだった。
その時。
不意に、
祖母の声を思い出す。
『深海の子は、
昔から海に呼ばれるんだよ』
波の音が、
記憶を揺らしていく。
碧は静かに目を閉じた。
――高校二年の夏。
夕暮れの縁側。
潮風。
風鈴の音。
スイカの甘い匂い。
祖母が魚を干しながら、
穏やかな声で話していた。
『夜の海で歌を聞いたら、
振り返っちゃいけないよ』
当時中学三年だった凪が、
スイカを持ったまま顔を上げる。
「またその話?」
『またじゃないよ』
祖母は少し笑った。
『この島の海には、
昔から人魚がいるんだから』
碧は縁側に寝転びながら、
ぼんやり海を眺めていた。
この頃にはもう、
全国優勝後の忙しさが始まっていた。
朝練。
遠征。
取材。
海を見る時間だけが、
少し息をつける時間だった。
「俺、小さい頃ちょっと怖かったなぁ」
凪が苦笑する。
「夜の海」
『そりゃ怖いさ』
祖母が言う。
『人魚は綺麗だからねぇ』
風が吹く。
風鈴が、
ちりん、と鳴った。
『みんな、
海へ行きたくなる』
凪が少し肩を縮める。
「なんかそれ、
怖いんだけど」
『綺麗なものほど、
気を付けなきゃいけないんだよ』
祖母の声は静かだった。
脅かすような言い方ではない。
まるで、
本当に知っているみたいな口調。
凪がスイカを齧りながら、
ちらっと碧を見る。
「兄貴は平気そうだけどね」
「何が」
「夜の海とか」
碧は少し笑った。
「まあ、昔から怖くはない」
『碧は特に気を付けな』
祖母がふと真面目な声になる。
碧が視線を向ける。
祖母は海を見つめたまま、
ゆっくり言った。
『深海の子は、
海に好かれやすい』
波の音。
夕暮れの海が、
静かに光っていた。
『海に呼ばれたら、
帰って来れなくなるからねぇ』
凪が「怖っ」と笑う。
碧も軽く笑って流した。
その時はまだ、
昔話だと思っていた。
人魚なんて、
いるわけないと。
――目を開ける。
現在の海は暗い。
祖母はもういない。
大学へ入った年、
静かに亡くなった。
あの日から、
実家へ帰るたび、
縁側は少し広く感じる。
碧は無意識に海を見る。
波が揺れる。
暗い水面の奥。
そこに、
何かがいる気がした。
深い青。
金の光。
脳裏に、
あの瞳が浮かぶ。
そして耳の奥で、
低い声が響く。
『……そんな顔で泳ぐな』
潮風が吹く。
碧はゆっくり息を吐いた。
どうしてなのか。
最近ずっと、
海に見られている気がする。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




