第4話「違う時間の海」
朝四時半。
まだ空は暗い。
島の港には、
静かな波音だけが響いていた。
深海碧は、
濡れた髪をタオルで拭きながら堤防を歩く。
朝練終わり。
肺は熱く、
身体は重い。
それでも、
今日も大学へ行って、
午後はトレーニングがある。
スマホを見る。
スケジュールは、
隙間なく埋まっていた。
息を吐く。
その時。
遠くから、
小さくギターの音が聞こえた。
碧は足を止める。
静かな旋律。
波の音に溶けるような、
柔らかい音だった。
聞き覚えがある。
堤防の先。
街灯の下に、
凪が座っていた。
ケースを横に置いて、
膝の上でアコースティックギターを弾いている。
黒髪が潮風に揺れる。
碧は少し目を細めた。
「……こんな時間まで起きてたのか」
声をかけると、
凪が驚いたように振り返る。
「うわ、兄貴」
「お前こそ何してんの」
「ちょっと曲作ってた」
そう言って、
凪は笑う。
碧は堤防へ腰を下ろした。
夜明け前の海。
凪の隣。
昔は当たり前だった景色なのに、
どこか懐かしい。
凪はギターを軽く鳴らしながら言う。
「兄貴、朝練?」
「まあ」
「今日も?」
「今日も」
短いやり取り。
けれど、
嫌な沈黙ではなかった。
凪は海を見つめる。
「兄貴さ」
「ん?」
「最近ずっと海いるよね」
碧は少しだけ笑った。
「お前もだろ」
「俺は好きだから」
その言葉に、
碧は返事ができなかった。
好き。
その感覚を、
最近うまく思い出せない。
昔は、
自分も同じだったはずなのに。
「……覚えてる?」
凪がぽつりと言う。
「小さい頃、
毎日一緒に泳いでたの」
碧は海を見る。
波が静かに揺れている。
「兄ちゃん、
魚みたいだった」
懐かしい言葉に、
碧は少しだけ笑った。
「それ、お前ずっと言ってんな」
「だって本当にそうだったし」
凪は楽しそうに笑う。
でもそのあと、
少しだけ静かになった。
「……高校くらいから、
一緒に泳がなくなったよね」
潮風が吹く。
碧は何も言えなかった。
中学で全国優勝してから、
生活は全部変わった。
朝練。
遠征。
大会。
合宿。
気付けば、
一日中泳いでいた。
その代わり。
凪と過ごす時間は、
少しずつ減っていった。
昔は同じ時間を生きていたのに。
今は違う。
碧は朝の海を泳ぐ。
凪は夜の海でギターを弾く。
同じ海なのに、
見ている景色が違った。
「兄貴」
凪が静かに言う。
「……最近、ちゃんと寝てる?」
碧は一瞬だけ目を瞬かせる。
「なんだよ急に」
「いや、なんか」
「ずっと疲れてる顔してるから」
波の音。
碧は視線を落とした。
疲れている。
そんなこと、
自分が一番分かっていた。
けれど。
「大丈夫」
気付けば、
そう答えていた。
昔からずっと、
そうやってきた。
凪は何も言わない。
ただ静かに、
ギターを鳴らす。
優しい音だった。
碧は目を閉じる。
波の音。
潮風。
ギターの旋律。
少しだけ、
昔に戻れた気がした。
けれど。
ポケットのスマホが震える。
画面には、
大学の監督からのメッセージ。
『午後のフォーム確認、
遅れるな』
現実が、
また碧を引き戻す。
「……行く」
碧が立ち上がる。
凪は小さく頷いた。
「うん」
堤防を歩き出した時、
後ろから声が飛ぶ。
「兄貴」
碧が振り返る。
朝焼け前の薄暗い海。
その前で、
凪が少し困ったように笑った。
「たまには、
楽しそうに泳げよ」
その言葉に、
碧は何も返せなかった。
ただ、
胸の奥だけが、
少し痛かった。
ご覧いただきありがとうございます。
『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




