第3話「人生の分岐点」
県総体を突破した時から、
周囲の空気は少し変わり始めていた。
「深海んとこの長男、すごいらしいぞ」
そんな声を、
島のあちこちで聞くようになった。
けれど。
本当に全部が変わったのは、
中学三年の夏だった。
全国大会。
会場は、
息が詰まりそうなほど広かった。
観客席。
眩しいライト。
響くアナウンス。
碧はスタート台の上で、
静かに息を吐いた。
緊張は不思議と無かった。
ただ、
勝ちたいと思っていた。
泳ぐことが好きだった。
速くなれるのが嬉しかった。
だから、
もっと遠くへ行きたかった。
『男子1500メートル自由形、
決勝――』
アナウンスが響く。
観客席のざわめき。
碧はゴーグルを直した。
水面を見る。
その瞬間だけ、
世界が静かになった。
スタート音。
飛び込む。
水の中へ入った瞬間、
身体が軽くなる。
腕を伸ばす。
水を掻く。
前へ進む。
海とは違う。
塩の匂いもしない。
波もない。
それでも、
泳ぐこと自体は好きだった。
水の中では、
余計なことを考えなくて済むから。
碧はひたすら前を向いた。
隣の選手。
後半のラップ。
肺の痛み。
全部、
どうでもよかった。
ただ、
速く。
もっと。
もっと。
気付けば、
誰も隣にいなかった。
最後のターン。
限界まで肺が熱い。
それでも、
身体は止まらなかった。
そして。
ゴールタッチした瞬間、
会場が揺れる。
大歓声。
電子掲示板。
一位。
深海碧の名前が、
全国一位の場所に表示されていた。
碧はしばらく動けなかった。
耳の奥で、
心臓だけが鳴っている。
勝った。
全国で一番になった。
その瞬間。
観客席から、
誰より大きな声が聞こえた。
「碧!!」
父だった。
立ち上がって、
興奮した顔で手を振っている。
母は泣いていた。
凪も、
目を輝かせながら叫んでいた。
「兄ちゃんすげぇ!!」
碧は、
そこでようやく笑った。
嬉しかった。
本当に。
期待されることも、
誇らしかった。
島に帰った後は、
もっとすごかった。
港に横断幕。
“祝・全国優勝”
近所の人たちが、
次々声をかけてくる。
「島の英雄だな!」
「テレビ見たぞ!」
「日本代表も夢じゃない!」
父は、
どこか誇らしげだった。
母も嬉しそうだった。
凪は自分のことみたいに喜んだ。
「兄ちゃん、めちゃくちゃかっこよかった!」
その顔を見ていると、
碧も嬉しくなる。
もっと頑張ろうと思った。
期待に応えたいと思った。
だから。
最初は、
全部幸せだったのだ。
けれど。
少しずつ、
変わっていく。
高校へ上がる頃には、
父の口癖は
『優勝できるだろ?』
になっていた。
周囲も、
“すごい”ではなく、
“勝って当然”
みたいな顔をするようになった。
タイムが少し悪いだけで、
残念そうな顔をされる。
メディアが来る。
大学から声がかかる。
スポンサーの話が出る。
気付けば、
碧自身より先に、
“深海碧”
という名前だけが
どんどん有名になっていった。
そしていつからか。
泳ぐたびに、
息が苦しくなるようになった。
それでも辞められなかった。
期待に応えたかった。
期待されることが、
嬉しかった頃を知っているから。
だから碧は今でも、
泳ぎ続けている。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




