第2話「昔は本当に海が好きだった」
潮の匂いがする。
夏の陽射しで熱を持った堤防。
遠くで鳴く蝉の声。
きらきらと光る青い海。
幼い頃の記憶は、
いつだって海の色をしていた。
「兄ちゃん、早く!」
小さな凪が、
海の中から手を振っている。
まだ低い声。
日に焼けた顔。
くしゃくしゃの笑顔。
碧は堤防の上から苦笑した。
「そんな慌てなくても逃げねーよ」
「魚逃げるかもしれないじゃん!」
「魚捕まえに行くわけじゃないだろ」
そう言いながら、
碧は海へ飛び込んだ。
冷たい水が全身を包む。
その瞬間、
身体がふっと軽くなる。
息をするより自然に、
海の中へ溶けていける感覚。
碧は水の中を滑るように泳いだ。
光が揺れる。
白い泡が浮かぶ。
夏の海は、
どこまでも自由だった。
「うわっ、速っ!」
後ろから凪の声が聞こえる。
碧が振り返ると、
必死に犬かきして追いかけてきている。
その姿がおかしくて、
思わず笑った。
「兄ちゃん、魚みたい!」
「なんだそれ」
「だって全然違う!
海の中の方が速い!」
凪は本気で感動したみたいに言う。
碧は少し照れ臭くなって、
顔を逸らした。
「凪が遅いだけだろ」
「えー!」
不満そうな声。
けれど次の瞬間には、
また笑っている。
碧もつられて笑った。
この頃の海には、
何もなかった。
勝敗も、
記録も、
期待も。
ただ、
泳ぐのが楽しかった。
波に揺られて、
息をして、
空を見上げるだけで幸せだった。
「兄ちゃん!」
凪が海面から顔を出す。
「どっちが先にあそこまで行けるか勝負!」
沖の岩を指差している。
碧は呆れたように笑った。
「またかよ」
「負けないし!」
「昨日も負けてただろ」
「今日は勝つ!」
そう言って、
凪は勢いよく泳ぎ出した。
水しぶきが上がる。
碧は少し遅れて泳ぎ始めた。
本気なんて出していない。
それでも、
水を掻けば自然に前へ進める。
凪の横へ並ぶと、
「うわっ! ずる!」
と騒ぐ声が聞こえた。
碧は笑いながら、
少し速度を落とした。
空は青く、
海は眩しかった。
その時。
堤防の方から、
祖母の声が聞こえた。
「凪ー! 碧ー!
あんまり沖まで行くんじゃないよ!」
振り返ると、
麦わら帽子を被った祖母が立っていた。
手を振りながら、
少し怒った顔をしている。
「人魚に攫われるよ!」
その言葉に、
凪がぱっと碧へ抱きついた。
「やだ!」
「お前、怖がりすぎ」
碧は笑う。
けれど凪は真剣な顔で言った。
「だってばあちゃん、
本当にいるって言ってた!」
“夜の海には近付くな”
“歌声を聞いたら帰って来れない”
島に昔からある、
人魚の話。
子どもの頃は、
半分本気で信じていた。
「兄ちゃんは攫われないでね」
凪がぽつりと言う。
碧は不思議そうに目を瞬かせた。
「なんで俺だけ」
「だって兄ちゃん、
海に好かれてるもん」
波の音が揺れる。
その時の碧は、
ただ笑っていた。
“海に好かれている”
そんな言葉の意味なんて、
少しも分からないまま。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▷『夜凪に溶ける』




