第1章:深海 碧」第1話“期待される人間”
朝五時。
空はまだ薄暗く、
島の海には夜の気配が残っていた。
潮風が頬を撫でる。
深海碧は、
静かに海へ入った。
冷たい水が足首を包み、
そのまま身体を沈めていく。
肺いっぱいに息を吸う。
そして、
何も考えないように水を蹴った。
暗い海を、
ひとりで泳ぐ。
波の音。
呼吸。
腕を掻く音。
それだけの世界。
本当なら、
この時間が好きだった。
昔は。
けれど今は、
海の中ですら、
頭のどこかがずっと騒がしい。
――次の大会。
――優勝候補。
――日本代表候補。
――深海家の誇り。
息を吐く。
海の中でさえ、
期待は追いかけてくる。
碧は速度を上げた。
考えたくない時ほど、
身体を動かす。
限界まで泳げば、
余計なことを考えなくて済むから。
どれくらい泳いだのか。
ようやく海から上がる頃には、
東の空が少し明るくなっていた。
滴る海水を拭いながら、
碧は堤防へ腰を下ろす。
肺が熱い。
なのに、
妙に息苦しかった。
ポケットのスマホが震える。
画面を見る。
父からだった。
碧は一瞬だけ目を伏せ、
通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『朝練終わったか?』
「今終わった」
『次の大会、記者も来るらしいぞ』
海を見つめたまま、
碧は黙って聞く。
『お前なら優勝できる』
『島の期待背負ってるんだからな』
いつもの言葉。
碧は小さく息を吐いた。
「……うん」
『スポンサーの話も来てる』
『ちゃんと結果出せよ』
「分かってる」
電話はすぐに切れた。
静かになる。
波の音だけが残った。
碧はスマホを握ったまま、
しばらく動かなかった。
島では、
深海碧を知らない人間の方が少ない。
中学時代、
全国大会で優勝した。
それからだった。
“天才”
“島の星”
“未来の日本代表”
好き勝手に呼ばれるようになったのは。
最初は嬉しかった。
期待されることが、
誇らしかった。
もっと速く泳ぎたいと思った。
勝ちたいと思った。
なのに。
いつからだろう。
泳ぐことが、
息をするみたいに苦しくなったのは。
「……兄貴」
不意に後ろから声がした。
振り返ると、
コンビニ袋を片手に持った凪が立っていた。
寝癖のついた黒髪。
眠そうな顔。
大学へ行く前なのだろう。
「また朝から泳いでたの」
「まあ」
凪は碧の隣へ座る。
コンビニのカフェオレを一本、
無言で差し出してきた。
碧は少しだけ目を丸くした。
「……ありがとう」
「母さんがさ」
『碧にちゃんと朝飯食わせろ』って」
少しだけ笑う。
その空気に、
碧の肩から力が抜けた。
凪は海を見ながら言う。
「今日、海静かだね」
「そうだな」
「兄貴、昔からこういう海好きだよね」
碧は答えなかった。
代わりに、
遠くの水平線を見る。
幼い頃。
凪と一緒に、
この海を泳いでいた。
ただ楽しかった。
勝敗なんてなくて、
息苦しさもなくて。
凪が笑いながら、
『兄ちゃん魚みたい!』
と言っていたのを、
今でも覚えている。
その記憶だけが、
やけに遠かった。
「……そういえば」
凪がふと思い出したように口を開く。
「港のおっちゃん達、
また言ってたよ」
「何を」
「“最近また歌が聞こえる”って」
碧が視線を向ける。
凪は少し笑った。
「人魚の話」
島には昔から、
人魚の伝説が残っている。
夜の海へ近付くな。
歌声を聞くな。
人魚に愛された人間は、
海へ還る。
子どもの頃は、
怖がりながら聞いていた話。
今では信じている人間なんて、
年寄りくらいだ。
「……兄貴、
海に連れてかれんなよ」
冗談っぽく凪が笑う。
碧も小さく笑い返した。
けれど。
脳裏に、
昨夜見た“あの瞳”が浮かぶ。
深い青。
そこに混ざる、
金の光。
そして。
『……そんな顔で泳ぐな』
低い声が、
耳の奥で静かに響いた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。




