プロローグ
潮の匂いが、肺の奥まで満ちていく。
まだ夜の色が残る海は静かで、
空と水面の境界さえ曖昧だった。
深海碧は、ゆっくりと息を吐く。
冷たい海水が肌を撫でるたび、
張り詰めていた神経が少しだけほどけていく気がした。
誰もいない海。
波の音だけが響く世界。
この時間だけは、
何も考えなくていい。
記録も、
期待も、
勝たなければならない理由も。
全部、
海の底へ沈められる。
碧は静かに水を蹴った。
暗い海を、
ひとりで泳ぐ。
腕を伸ばし、
呼吸を整え、
一定のリズムで前へ進む。
身体は勝手に動く。
何年も繰り返した動作だった。
けれど。
(……苦しい)
肺ではなく、
もっと深い場所が軋む。
息はできているはずなのに、
溺れているみたいだった。
その時。
不意に、
ぞくりと背筋が震えた。
誰かに見られている。
碧は泳ぐのを止め、
静かな海を見渡す。
何もない。
月光が水面に揺れているだけ。
気のせいか、と息を吐いた瞬間。
――深海の底で、
“それ”は碧を見ていた。
青。
いや、
金が混ざっている。
夜の海より深い瞳。
人間ではないと、
一目で分かった。
なのに。
恐ろしいより先に、
綺麗だと思ってしまった。
碧が息を呑む。
次の瞬間、
白い手が海の底から伸びる。
冷たい指先が、
水の中で碧の手首を掴んだ。
驚くほど強い力。
引きずり込まれる――
そう思ったのに。
海の底から現れたその男は、
ただ静かに碧を見上げた。
白に近い金髪が、
水の中でゆっくり揺れている。
淡く光る鱗。
長い尾びれ。
そして、
どこか冷えた瞳。
男は碧を見つめたまま、
低い声で呟いた。
「……そんな顔で泳ぐな」
その声は、
不思議なくらい静かに耳へ落ちた。
碧は言葉を失う。
“そんな顔”。
どんな顔をしていたのか、
自分では分からなかった。
ただ、
男の瞳だけが焼き付いて離れない。
海の底に沈む、
青と金の光。
次の瞬間。
男の姿は、
泡のように深海へ溶けて消えた。
碧はしばらく動けなかった。
荒くなる呼吸。
心臓だけが妙にうるさい。
夢だったのかもしれない。
そう思いながら、
震える指先を握る。
けれど。
月明かりの浮かぶ水面に、
ひとひらだけ、
青金に光る鱗が残されていた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。




