第3話「失ったもの」
「何だっけ……」
彼は困ったように笑った。
「思い出せないや」
レヴィは何も言わなかった。
周囲を漂う青い光だけが静かに揺れている。
代償。
その言葉が頭をよぎる。
海の魔女は願いを叶える。
だが必ず何かを奪う。
「碧」
もう一度呼ぶ。
すると彼は少し考えてから言った。
「あお?」
そして尾びれへ視線を落とした。
「ああ、青色のことか」
嬉しそうに尾びれを揺らす。
「この色、とても綺麗だよな」
違う。
そうじゃない。
レヴィは静かに目を伏せた。
「……自分の名前だ」
「俺の名前?」
彼は目を瞬く。
「あ……」
思い出そうとする。
だが。
「あれ?」
困ったように笑う。
「本当に分からないな」
その瞬間。
レヴィは理解した。
名前を失ったのだと。
海の魔女は。
碧から最初に名前を奪ったのだと。
「少し混乱するかもしれないが」
ゆっくり問いかける。
「人間だった頃のことは何か思い出せるか」
彼は素直に考え始めた。
しばらくして。
「……名前が分からない」
ぽつりと言う。
「あと家族」
レヴィの瞳が揺れる。
「家族はいた気がする」
「でも顔が分からない」
「どんな人だったのかも分からない」
海流が静かに流れる。
彼は続けた。
「何をしていたのかも分からない」
「どんな生活だったのかも」
「どんな人間だったのかも」
少し考えて。
困ったように笑う。
「思い出せないな」
レヴィは答えなかった。
代償。
思っていた以上に重い。
名前。
家族。
人生。
人間だった証。
海の魔女はそれを奪った。
「名前と人間だった頃の記憶を代償に取られたのかもしれない」
そう告げると、彼は少しだけ目を伏せた。
寂しそうだった。
ほんの一瞬だけ。
波が寄せて返すほどの短さで。
だが次の瞬間。
彼は顔を上げた。
「でもさ」
柔らかく笑う。
「それって未練を無くすためじゃないか?」
レヴィは黙っている。
「元々そのつもりだったんだろ?」
「全部置いてきて、人魚になりたいって願った」
「レヴィと一緒に生きたいって選んだんだ」
青い光が彼の髪を照らす。
「だったら記憶がない方が楽かもしれない」
「むしろ都合がいい」
そう言って笑った。
本当に。
心からそう思っている顔だった。
「これが代償なら」
少しだけ肩を竦める。
「ラッキーじゃないかな」
レヴィは返事ができなかった。
嬉しいはずだった。
自分を選んでくれた。
後悔していないと言ってくれている。
それなのに。
胸の奥で何かが静かに沈んでいく。
碧はもういない。
その事実だけが、深海の底みたいに静かだった。
けれど。
目の前の彼は笑っている。
光の中を漂うように。
自由に。
幸せそうに。
レヴィは小さく目を伏せた。
そして。
その笑顔から目を逸らせなかった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




