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深海に溺れる  作者: 深幸-みさき-
第10章:「人魚」
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第3話「失ったもの」

「何だっけ……」


彼は困ったように笑った。


「思い出せないや」


レヴィは何も言わなかった。


周囲を漂う青い光だけが静かに揺れている。


代償。


その言葉が頭をよぎる。


海の魔女は願いを叶える。


だが必ず何かを奪う。


「碧」


もう一度呼ぶ。


すると彼は少し考えてから言った。


「あお?」


そして尾びれへ視線を落とした。


「ああ、青色のことか」


嬉しそうに尾びれを揺らす。


「この色、とても綺麗だよな」


違う。


そうじゃない。


レヴィは静かに目を伏せた。


「……自分の名前だ」


「俺の名前?」


彼は目を瞬く。


「あ……」


思い出そうとする。


だが。


「あれ?」


困ったように笑う。


「本当に分からないな」


その瞬間。


レヴィは理解した。


名前を失ったのだと。


海の魔女は。


碧から最初に名前を奪ったのだと。




「少し混乱するかもしれないが」


ゆっくり問いかける。


「人間だった頃のことは何か思い出せるか」


彼は素直に考え始めた。


しばらくして。


「……名前が分からない」


ぽつりと言う。


「あと家族」


レヴィの瞳が揺れる。


「家族はいた気がする」


「でも顔が分からない」


「どんな人だったのかも分からない」


海流が静かに流れる。


彼は続けた。


「何をしていたのかも分からない」


「どんな生活だったのかも」


「どんな人間だったのかも」


少し考えて。


困ったように笑う。


「思い出せないな」


レヴィは答えなかった。


代償。


思っていた以上に重い。


名前。


家族。


人生。


人間だった証。


海の魔女はそれを奪った。


「名前と人間だった頃の記憶を代償に取られたのかもしれない」


そう告げると、彼は少しだけ目を伏せた。


寂しそうだった。


ほんの一瞬だけ。


波が寄せて返すほどの短さで。


だが次の瞬間。


彼は顔を上げた。


「でもさ」


柔らかく笑う。


「それって未練を無くすためじゃないか?」


レヴィは黙っている。


「元々そのつもりだったんだろ?」


「全部置いてきて、人魚になりたいって願った」


「レヴィと一緒に生きたいって選んだんだ」


青い光が彼の髪を照らす。


「だったら記憶がない方が楽かもしれない」


「むしろ都合がいい」


そう言って笑った。


本当に。


心からそう思っている顔だった。


「これが代償なら」


少しだけ肩を竦める。


「ラッキーじゃないかな」


レヴィは返事ができなかった。


嬉しいはずだった。


自分を選んでくれた。


後悔していないと言ってくれている。


それなのに。


胸の奥で何かが静かに沈んでいく。


碧はもういない。


その事実だけが、深海の底みたいに静かだった。


けれど。


目の前の彼は笑っている。


光の中を漂うように。


自由に。


幸せそうに。


レヴィは小さく目を伏せた。


そして。


その笑顔から目を逸らせなかった。

ご覧いただきありがとうございます。

『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『夜凪に溶ける』


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