第1話「人魚」
海の底は静かだった。
深海の王族だけが立ち入ることを許された場所。
古い珊瑚に囲まれたその空間は、海流さえ穏やかで、まるで海そのものが眠っているようだった。
レヴィは岩棚に腰を下ろし、目の前を見つめる。
そこに眠る人影を。
碧だった。
いや。
もう碧ではないのかもしれない。
海の魔女と契約を交わしてから、一週間が過ぎていた。
目覚める気配はまだない。
けれど身体は確かに変化している。
人間だった足は失われ、美しい尾びれへと変わっていた。
深海の青から透明へ溶けていく尾。
光を受けるたび、薄い硝子のように輝く。
髪は青みを帯びた黒。
水に溶けるように揺れている。
肌は人間だった頃より白く、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細だった。
閉じられた瞼の下にある瞳はまだ見えない。
それでも。
目を開けば海の色をしているのだろうと思った。
レヴィは静かに手を伸ばす。
頬に触れる。
冷たい海の中なのに、不思議と温もりを感じた。
綺麗だった。
ただ綺麗だった。
蒼士郎とも違う。
人魚とも違う。
人間とも違う。
どこにもいない存在だった。
だからこそ不安になる。
代償は何だ。
海の魔女は何を奪った。
身体を見る限り、大きな変化はない。
確かに中性的な美しさは増している。
けれど。
それだけとは思えなかった。
記憶か。
声か。
名前か。
それとも。
もっと別の何かか。
答えはまだ分からない。
レヴィは目を伏せる。
海の魔女はいつだってそうだった。
願いを叶える。
だが。
代償を教えることはない。
それを知るのはいつも願った後だ。
その時。
眠る身体が小さく震えた。
苦しそうに眉が寄る。
呼吸が乱れる。
胸が上下し、水泡がこぼれる。
レヴィはすぐに身体を引き寄せた。
額へ触れる。
頬へ触れる。
そして。
そっと口づける。
人魚の身体がまだ馴染んでいないのだろう。
人間だった名残が残っている。
口づけをすると呼吸が落ち着くことに気付いたのは数日前だった。
最初は偶然かと思った。
けれど違う。
苦しそうにするたび。
呼吸が浅くなるたび。
口づけると穏やかになる。
まるで。
完全な人魚になるための最後の時間みたいに。
やがて震えが収まる。
表情も静かになる。
レヴィは小さく息を吐いた。
どれほど長く生きていても。
待つ時間には慣れない。
特に。
失いたくないものほど。
レヴィは眠る姿を見つめる。
この場所へ連れてきたのも、そのためだった。
他の人魚たちから守るため。
好奇の視線から守るため。
海の魔女と契約し、人魚になった人間など前例がない。
王族である自分の傍に置かなければ何が起こるか分からなかった。
だから。
ここにいる。
ずっと。
ただ目覚めるのを待っている。
深海は静かだった。
海流も穏やかだった。
眠る人魚の髪がゆっくり揺れる。
レヴィはその姿を見つめる。
そして誰にも聞こえない声で呟いた。
「……早く戻ってこい」
返事はない。
ただ。
眠る人魚の指先がほんのわずかに動いた気がした。
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ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




