第5話「海の底」
深海は静かだった。
あれほど荒れていた海が、
少しだけ穏やかになっている。
波の音も遠い。
乱れていた海流も、
ほんのわずかに落ち着いていた。
碧はレヴィの腕の中で目を開ける。
暗いはずの海だった。
けれど。
不思議と何も見えないわけではない。
海底の岩肌。
揺れる海藻。
青白く光る小さな生き物たち。
夜空の星みたいに。
深海には光が浮かんでいた。
「……綺麗だな」
思わず呟く。
胸の奥にあった不安が、
その光景に少しだけ押し流される。
レヴィは少しだけ振り返った。
そして。
ほんのわずかに目を細める。
「そうか」
短い返事だった。
それでも。
どこか嬉しそうだった。
碧がこの海を恐れるだけではなく、
美しいと思ってくれたことが、
レヴィには少しだけ救いだった。
*
さらに深く潜る。
その途中で。
碧は気付いた。
海流が変わっている。
さっきまでの荒れた流れではない。
穏やかだ。
優しい。
まるで。
何かを迎え入れるみたいに。
碧はその変化に目を見張る。
自分が知らない海が、
まだこんなにもあるのだと胸が高鳴った。
レヴィも気付いていた。
海が少しだけ静かになっている。
拒絶は消えていない。
けれど。
弱くなっていた。
求婚した相手が。
自ら海を選んだ。
その事実を。
海も知ったのかもしれない。
レヴィは何も言わなかった。
ただ碧を抱く腕に、
少しだけ力が入る。
安堵にも似た感情と、
この先へのわずかな警戒が、
胸の内で静かに混ざり合っていた。
*
やがて。
碧は息を呑んだ。
目の前に巨大な影が現れる。
最初は岩山だと思った。
違う。
建物だった。
海底遺跡。
崩れた柱。
巨大な階段。
朽ちた塔。
どこか神殿にも見える。
どこか王宮にも見える。
人間の世界とは全く違う。
けれど。
確かに誰かが生きていた痕跡だった。
「すげぇ……」
思わず声が漏れる。
驚きがそのまま言葉になった。
知らない世界の広さに、
胸が熱くなる。
レヴィは遺跡の間を泳いでいく。
その時だった。
視線を感じた。
碧は振り返る。
そして固まった。
いた。
人魚だ。
一人ではない。
二人でもない。
何人も。
何十人も。
遺跡の柱の陰から。
階段の上から。
水中庭園のような場所から。
こちらを見ている。
銀色の尾びれ。
青い尾びれ。
深い紫。
夜空みたいな黒。
様々な色の人魚たち。
誰も近付いてこない。
ただ見ている。
驚いたように。
息を呑むように。
中には碧を見ている者もいた。
けれど。
多くはレヴィを見ていた。
深海の王族。
海に拒まれた人魚。
そして。
人間を連れて帰ってきた人魚を。
静かに見つめていた。
「……見られてるな」
碧が小さく言う。
好奇心と居心地の悪さが、
同時に胸をくすぐる。
レヴィは前を向いたまま答える。
「気にするな」
「無理だろ」
思わず返す。
レヴィの肩がわずかに揺れた。
笑ったのかもしれない。
碧は少しだけ安心する。
その反応がいつものレヴィらしくて、
張っていた気持ちが少し緩んだ。
*
遺跡を越える。
さらに奥へ。
さらに深く。
光は少なくなり。
静寂は深くなる。
まるで海そのものの心臓へ向かうみたいだった。
周囲の人魚もいなくなった。
遺跡も消えた。
残るのは深い闇だけ。
碧はふと気付く。
レヴィが少し緊張している。
珍しい。
あのレヴィが。
普段は揺るがない背中が、
ほんのわずかに強張って見えた。
「……怖いのか」
思わず聞く。
レヴィは少し黙る。
そして。
静かに答えた。
「分からない」
その声はいつもより小さかった。
自分でも説明できない感覚だった。
警戒なのか。
不安なのか。
あるいはもっと別の何かなのか。
「ただ」
そこで言葉が途切れる。
深海の底。
どこまでも静かな闇。
その先に。
何かがいる。
碧にも分かった。
空気が変わった。
海そのものが変わった。
潮の流れが止まる。
音が消える。
世界が息を潜める。
胸がざわつく。
怖いはずなのに、
目を逸らしたくなかった。
レヴィは前を見る。
遥か先。
深海の最奥。
誰も近付かない場所。
海の魔女がいる場所を。
そして。
静かに告げた。
「着くぞ」
その言葉と同時に。
闇の向こうで何かが光った。
まるで。
深海が目を開いたみたいに。
ご覧いただきありがとうございます。
『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




