第4話「口づけ」
海はまだ荒れていた。
黒い波が夜の海を揺らし続けている。
その中で。
二人だけが静かだった。
レヴィは碧を見つめている。
何度も。
確かめるみたいに。
碧は少し笑った。
「そんなに心配か」
レヴィは答えない。
代わりに視線を伏せる。
長い睫毛が影を落とした。
「……本当にいいんだな」
小さな声だった。
風に消えそうなほど。
碧は頷く。
迷いはなかった。
不思議なくらい。
「もちろん」
海が揺れる。
波がぶつかる。
けれど。
胸の奥は静かだった。
レヴィはしばらく何も言わなかった。
やがて。
決意したように目を閉じる。
「なら」
その声は深海みたいに静かだった。
「行こう」
レヴィが手を伸ばす。
碧の頬へ触れる。
冷たい指先だった。
けれど嫌ではない。
むしろ安心する。
海の匂いがした。
ずっと知っている匂い。
そして。
レヴィが近付く。
碧は目を見開く。
何をされるのか分かっているはずなのに。
心臓が大きく鳴った。
次の瞬間。
唇が触れる。
ほんの短い口づけだった。
海より冷たいはずなのに。
不思議と温かかった。
胸の奥へ波が広がる。
静かに。
どこまでも。
碧は息を呑む。
レヴィはすぐに離れた。
「行くぞ」
何事もなかったように言う。
けれど耳が少し赤い気がした。
気のせいかもしれない。
碧は思わず笑う。
「お前」
「黙れ」
即座に返される。
少しだけ。
いつもの空気だった。
そのことが嬉しかった。
*
次の瞬間。
レヴィは碧を抱き寄せる。
そして。
海へ沈んだ。
碧は反射的に息を止める。
冷たい海水が全身を包む。
暗い。
深い。
どこまでも続く夜の海。
レヴィの尾びれが大きく揺れる。
景色が一気に流れ始めた。
速い。
信じられないほど速い。
海流そのものになったみたいに。
深く。
さらに深く。
沈んでいく。
碧は思わず目を閉じる。
息が苦しいと思った。
けれど。
苦しくならない。
不思議だった。
慌てて口を開く。
海水が入るはずだった。
なのに。
普通に呼吸ができた。
碧は目を見開く。
吐く。
吸う。
何度やっても苦しくない。
まるで。
最初から海の生き物だったみたいに。
驚きながらレヴィを見る。
レヴィは何も言わない。
ただ碧を抱えたまま泳いでいる。
海流を裂いて。
闇を切り裂いて。
どこまでも深く。
普通なら潰れていてもおかしくない深さだった。
けれど身体は平気だった。
耳も痛くない。
息も苦しくない。
怖くもなかった。
それはきっと。
レヴィがいるからだ。
腕の中は不思議なほど安心する。
深海へ向かっている。
人間では辿り着けない場所へ。
もう戻れないかもしれない場所へ。
それなのに。
恐怖より先に浮かんだのは。
安心だった。
碧は静かに目を閉じる。
レヴィの鼓動が伝わる。
深い海の底へ沈んでいく。
まるで。
胸の奥の想いまで深海へ連れて行かれるみたいに。
静かに。
ゆっくりと。
二人は人間の知らない海へ沈んでいった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




