第3話「代償」
荒れた海は少しも静まらなかった。
波は夜の海を叩き続け、
風は低く唸っている。
それでも。
二人だけは不思議なほど静かだった。
碧は海面に浮かびながら、
レヴィを見ていた。
レヴィはまだ何も言わない。
ただ碧を見つめている。
信じられないものを見るみたいに。
遠い昔の夢を見るみたいに。
やがて。
レヴィはゆっくり視線を落とした。
「……方法はある」
小さな声だった。
碧は黙って続きを待つ。
「人魚が人間へ口づけをすると、しばらく海の中で呼吸ができる」
波が揺れる。
レヴィの銀色の髪が海面へ広がった。
「深海の水圧にも耐えられる」
「そんなことできるのか」
碧は思わず目を丸くする。
レヴィは頷いた。
「昔からある力だ」
それはまるで。
人間を海へ連れて行くための力だった。
伴侶を迎えるための力。
あるいは。
海の魔女の元へ辿り着くための力。
人魚は半分人間で半分魚だ。
遥か昔。
人と海が今より近かった頃。
そんな力が必要だった時代があったのかもしれない。
レヴィは遠い記憶を辿るように海を見る。
けれど。
その視線はすぐに碧へ戻った。
深い青の瞳。
どこか苦しそうな目だった。
「碧」
名前を呼ぶ。
碧は頷く。
レヴィは少しだけ目を伏せた。
「本当にいいんだな」
波が揺れる。
風が吹く。
その声だけが静かだった。
「もう人間には戻れない」
碧はしばらく黙っていた。
不思議だった。
怖くないわけではない。
人魚になる。
人間ではなくなる。
家族とも。
今の人生とも。
別れることになる。
それなのに。
心は驚くほど静かだった。
「誘ったのはそっちだろ」
碧は小さく笑う。
レヴィの肩がわずかに揺れた。
「それに」
碧は言葉を続ける。
「そんな顔しないでくれ」
レヴィが目を見開く。
碧は少し困ったように笑った。
「今にも泣きそうな顔してる」
レヴィは答えない。
ただ黙っていた。
自分がどんな顔をしているのか。
本人にも分からなかった。
ただ。
怖かった。
碧が失うものの大きさを知っているから。
蒼士郎の時にはできなかった選択を。
今。
碧は選ぼうとしているから。
レヴィは静かに息を吐く。
「人魚になるためには海の魔女の元へ行く」
碧は頷く。
「願いには代償が必要だ」
風が吹く。
海が鳴る。
「何を失うかは私にも分からない」
沈黙が落ちる。
けれど。
碧は目を逸らさなかった。
「そりゃそうだろ」
あっさりした声だった。
レヴィが顔を上げる。
「姿も種族も変えるんだ」
碧は苦笑する。
「代償くらい払うさ」
波が揺れる。
「何を失うかは分からないけど」
そして。
静かに続けた。
「百も承知だ」
レヴィは言葉を失う。
碧自身も驚いていた。
もっと迷うと思っていた。
もっと怖くなると思っていた。
けれど。
不思議なほど覚悟が決まっていた。
人魚になりたい。
海へ行きたい。
そう思う自分に驚きはある。
それでも。
今はそれ以上に。
目の前の人魚の方が気になった。
レヴィはずっと苦しそうだった。
ずっと一人で抱えていた。
海に拒まれて。
禁忌を犯して。
それでも碧を守ってくれた。
胸の奥が痛む。
自分に何ができるのかは分からない。
人魚のことなんて何も知らない。
海のことだって。
まだ少ししか知らない。
それでも。
ただ一つだけ。
はっきりしていることがあった。
レヴィの力になりたい。
その願いだけが。
静かに胸の奥へ沈んでいく。
深海の底まで届くみたいに。
確かに。
揺らぐことなく。
そこにあった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




