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深海に溺れる  作者: 深幸-みさき-
第8章:「選ぶ」
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第5話「幸せになれ」

夜の海は静かだった。


防波堤へ座る二人の足元で、

波がゆっくり揺れている。


凪はしばらく何も言わなかった。


碧も黙っていた。


海風だけが通り過ぎていく。


やがて。


凪が小さく息を吐く。


「そうか……」


その声は驚くほど穏やかだった。


碧は顔を上げる。


怒られると思っていた。


呆れられると思っていた。


けれど。


凪の表情は優しかった。


凪は少しだけ笑う。


「実はさ」


海を見る。


遠くの波を。


懐かしそうに。


「俺も人魚に会ったことあるんだ」


碧の目が大きく開く。


「え」


凪は頷いた。


「去年の夏」


「ノアって言ってた」


その名前に。


碧は息を呑む。


レヴィから聞いたことがある。


深海の王族。


妹。


「だから兄貴の言ってたレヴィとは違うと思う」


凪は小さく笑った。


「髪の長い綺麗な人魚だったよ」


「浅瀬へ来てさ」


「俺のギター聞いてくれて」


「一緒に歌った」


夜風が吹く。


凪の視線は遠かった。


もう会えない人を見るみたいに。


「今は会えなくなったけどな」


少しだけ寂しそうに笑う。


そして。


碧を見る。


「だからさ」


声は優しかった。


本当に。


優しかった。


「もし兄貴が人魚になる道を選ぶなら」


碧は息を止める。


凪は続けた。


「ノアに会ったら伝えてよ」


海を見る。


波を見る。


その向こうを見る。


「凪が探してるって」


「心配してるって」


胸の奥が揺れた。


静かに。


大きく。


碧は何も言えなかった。



凪は少し笑う。


「兄貴さ」


「ここしばらくずっと苦しそうだった」


碧が顔を上げる。


凪は肩を竦めた。


「気付いてないと思ってた?」


「昔みたいに泳いでなかった」


「ずっと張り詰めてた」


その言葉が胸へ落ちる。


静かに。


深く。


「俺さ」


凪が笑う。


「昔兄貴に言ったことあるだろ」


碧は少し考える。


そして。


思い出した。


小学生の頃。


海で泳いでいた時。


凪が笑いながら言った。


魚みたい。


自由で。


楽しそうで。


どこまでも泳いでいけそうだと。


凪は海を見る。


「覚えてる?」


碧は小さく頷く。


凪も頷いた。


「人魚になったらさ」


少し笑う。


泣きそうな顔で。


「魚みたいにもっと自由に泳げるんだろ?」


その瞬間。


碧は何も言えなくなった。


自由。


その言葉だけが胸へ残る。


ずっと欲しかったものだった。


ずっと失っていたものだった。



しばらく波の音だけが続く。


凪は小さく笑う。


「ばあちゃんにさ」


「人魚には気を付けろって散々言われたよな」


碧も少し笑った。


「言われたな」


「結局」


凪は肩を竦める。


「兄弟揃って別々の人魚に惹かれてる」


思わず二人とも笑う。


少しだけ。


本当に少しだけ。


昔みたいに。



やがて。


凪は真面目な顔になる。


海風が吹く。


夜の波が揺れる。


「このことは誰にも言わない」


碧は黙って聞いている。


「兄貴がいなくなったら」


凪は苦笑した。


「まあたぶん大騒ぎになると思う」


「親も泣くだろうし」


「俺もたぶんめちゃくちゃ怒られる」


少し笑う。


けれど。


その目は泣いていた。


「それでも」


凪は続ける。


「たぶん大丈夫」


碧は息を呑む。


凪は海を見る。


まっすぐ。


その先を見る。


「だからさ」


少しだけ声が震える。


「時々海から俺のこと見てよ」


波が揺れる。


「俺もギター弾くからさ」


「たまにでいい」


「本当にたまにでいいから」


笑おうとする。


けれど上手く笑えない。


「俺は」


そこで言葉が止まる。


しばらく黙る。


喉の奥で何かを飲み込むように。


何度も。


何度も。


そして。


ようやく続けた。


「兄貴の幸せを願ってるからさ」


碧は目を閉じる。


その言葉が胸の奥へ沈んでいく。


痛いほど優しく。


逃げ場がないほど真っ直ぐに。


視界が滲む。


いつからだろう。


涙が落ちていた。


止めようとしても止まらなかった。


人魚になることは決めていた。


後悔もないはずだった。


レヴィと生きたい。


その気持ちは変わらない。


それなのに。


凪の声を聞いているだけで。


隣にいる温もりを感じるだけで。


胸のどこかが引き裂かれるように痛んだ。


もう二度と。


こうして並んで海を見ることはないのかもしれない。


何気ない会話も。


くだらない言い合いも。


帰れば当たり前にいた弟の姿も。


全部。


今日で終わるのかもしれない。


隣を見る。


凪も泣いていた。


肩を震わせるわけでもなく。


声を上げるわけでもなく。


ただ静かに。


涙だけが頬を伝っていた。


碧は初めて気付く。


凪もずっと我慢していたのだと。


引き止めたい気持ちを。


離れたくない気持ちを。


全部飲み込んで。


それでも最後に選んだのが。


兄の幸せを願うことだったのだと。


その優しさが苦しかった。


ありがとうと言いたかった。


ごめんと言いたかった。


大好きだと伝えたかった。


けれど。


どんな言葉も足りない気がした。


口を開けば。


決意まで崩れてしまいそうだった。


だから。


二人とも何も言わない。


ただ。


泣いていた。


波の音だけが続く。


寄せては返し。


寄せては返す。


まるで言葉にならない想いを運ぶように。


最近は話していなかった。


忙しかった。


すれ違っていた。


それでも。


離れていた時間なんて関係なかった。


幼い頃から隣にいた。


同じ景色を見て。


同じ海で遊んで。


同じ家に帰った。


かけがえのない弟だった。


誰よりも。


ずっと。


沈黙が続く。


けれど不思議と苦しくなかった。


言葉にできないものがあることを。


二人とも知っていたから。


夜の海は何も言わない。


ただ。


二人の涙を受け止めるみたいに。


優しく揺れていた。


やがて波音だけが残る。


その静けさの中で。


碧は隣にいる凪の存在を胸へ刻みつける。


忘れないように。


失わないように。


たとえ海の底へ行っても。


この夜だけは消えないように。


誰も言葉を発さなかった。


けれど。


その沈黙は確かに別れだった。


そして同時に。


互いの幸せを願う祈りでもあった。

ご覧いただきありがとうございます。

『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『夜凪に溶ける』


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