第5話「幸せになれ」
夜の海は静かだった。
防波堤へ座る二人の足元で、
波がゆっくり揺れている。
凪はしばらく何も言わなかった。
碧も黙っていた。
海風だけが通り過ぎていく。
やがて。
凪が小さく息を吐く。
「そうか……」
その声は驚くほど穏やかだった。
碧は顔を上げる。
怒られると思っていた。
呆れられると思っていた。
けれど。
凪の表情は優しかった。
凪は少しだけ笑う。
「実はさ」
海を見る。
遠くの波を。
懐かしそうに。
「俺も人魚に会ったことあるんだ」
碧の目が大きく開く。
「え」
凪は頷いた。
「去年の夏」
「ノアって言ってた」
その名前に。
碧は息を呑む。
レヴィから聞いたことがある。
深海の王族。
妹。
「だから兄貴の言ってたレヴィとは違うと思う」
凪は小さく笑った。
「髪の長い綺麗な人魚だったよ」
「浅瀬へ来てさ」
「俺のギター聞いてくれて」
「一緒に歌った」
夜風が吹く。
凪の視線は遠かった。
もう会えない人を見るみたいに。
「今は会えなくなったけどな」
少しだけ寂しそうに笑う。
そして。
碧を見る。
「だからさ」
声は優しかった。
本当に。
優しかった。
「もし兄貴が人魚になる道を選ぶなら」
碧は息を止める。
凪は続けた。
「ノアに会ったら伝えてよ」
海を見る。
波を見る。
その向こうを見る。
「凪が探してるって」
「心配してるって」
胸の奥が揺れた。
静かに。
大きく。
碧は何も言えなかった。
*
凪は少し笑う。
「兄貴さ」
「ここしばらくずっと苦しそうだった」
碧が顔を上げる。
凪は肩を竦めた。
「気付いてないと思ってた?」
「昔みたいに泳いでなかった」
「ずっと張り詰めてた」
その言葉が胸へ落ちる。
静かに。
深く。
「俺さ」
凪が笑う。
「昔兄貴に言ったことあるだろ」
碧は少し考える。
そして。
思い出した。
小学生の頃。
海で泳いでいた時。
凪が笑いながら言った。
魚みたい。
自由で。
楽しそうで。
どこまでも泳いでいけそうだと。
凪は海を見る。
「覚えてる?」
碧は小さく頷く。
凪も頷いた。
「人魚になったらさ」
少し笑う。
泣きそうな顔で。
「魚みたいにもっと自由に泳げるんだろ?」
その瞬間。
碧は何も言えなくなった。
自由。
その言葉だけが胸へ残る。
ずっと欲しかったものだった。
ずっと失っていたものだった。
*
しばらく波の音だけが続く。
凪は小さく笑う。
「ばあちゃんにさ」
「人魚には気を付けろって散々言われたよな」
碧も少し笑った。
「言われたな」
「結局」
凪は肩を竦める。
「兄弟揃って別々の人魚に惹かれてる」
思わず二人とも笑う。
少しだけ。
本当に少しだけ。
昔みたいに。
*
やがて。
凪は真面目な顔になる。
海風が吹く。
夜の波が揺れる。
「このことは誰にも言わない」
碧は黙って聞いている。
「兄貴がいなくなったら」
凪は苦笑した。
「まあたぶん大騒ぎになると思う」
「親も泣くだろうし」
「俺もたぶんめちゃくちゃ怒られる」
少し笑う。
けれど。
その目は泣いていた。
「それでも」
凪は続ける。
「たぶん大丈夫」
碧は息を呑む。
凪は海を見る。
まっすぐ。
その先を見る。
「だからさ」
少しだけ声が震える。
「時々海から俺のこと見てよ」
波が揺れる。
「俺もギター弾くからさ」
「たまにでいい」
「本当にたまにでいいから」
笑おうとする。
けれど上手く笑えない。
「俺は」
そこで言葉が止まる。
しばらく黙る。
喉の奥で何かを飲み込むように。
何度も。
何度も。
そして。
ようやく続けた。
「兄貴の幸せを願ってるからさ」
碧は目を閉じる。
その言葉が胸の奥へ沈んでいく。
痛いほど優しく。
逃げ場がないほど真っ直ぐに。
視界が滲む。
いつからだろう。
涙が落ちていた。
止めようとしても止まらなかった。
人魚になることは決めていた。
後悔もないはずだった。
レヴィと生きたい。
その気持ちは変わらない。
それなのに。
凪の声を聞いているだけで。
隣にいる温もりを感じるだけで。
胸のどこかが引き裂かれるように痛んだ。
もう二度と。
こうして並んで海を見ることはないのかもしれない。
何気ない会話も。
くだらない言い合いも。
帰れば当たり前にいた弟の姿も。
全部。
今日で終わるのかもしれない。
隣を見る。
凪も泣いていた。
肩を震わせるわけでもなく。
声を上げるわけでもなく。
ただ静かに。
涙だけが頬を伝っていた。
碧は初めて気付く。
凪もずっと我慢していたのだと。
引き止めたい気持ちを。
離れたくない気持ちを。
全部飲み込んで。
それでも最後に選んだのが。
兄の幸せを願うことだったのだと。
その優しさが苦しかった。
ありがとうと言いたかった。
ごめんと言いたかった。
大好きだと伝えたかった。
けれど。
どんな言葉も足りない気がした。
口を開けば。
決意まで崩れてしまいそうだった。
だから。
二人とも何も言わない。
ただ。
泣いていた。
波の音だけが続く。
寄せては返し。
寄せては返す。
まるで言葉にならない想いを運ぶように。
最近は話していなかった。
忙しかった。
すれ違っていた。
それでも。
離れていた時間なんて関係なかった。
幼い頃から隣にいた。
同じ景色を見て。
同じ海で遊んで。
同じ家に帰った。
かけがえのない弟だった。
誰よりも。
ずっと。
沈黙が続く。
けれど不思議と苦しくなかった。
言葉にできないものがあることを。
二人とも知っていたから。
夜の海は何も言わない。
ただ。
二人の涙を受け止めるみたいに。
優しく揺れていた。
やがて波音だけが残る。
その静けさの中で。
碧は隣にいる凪の存在を胸へ刻みつける。
忘れないように。
失わないように。
たとえ海の底へ行っても。
この夜だけは消えないように。
誰も言葉を発さなかった。
けれど。
その沈黙は確かに別れだった。
そして同時に。
互いの幸せを願う祈りでもあった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
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