第4話「凪」
夕方だった。
窓の外では海風が揺れている。
久しぶりに予定のない日だった。
碧は自室の椅子へ座ったまま、
スマホを見つめている。
画面には凪の名前があった。
何度も開いて。
何度も閉じる。
指が動かない。
言うべきなのか分からなかった。
言ってどうなる。
信じてもらえる保証なんてない。
むしろ。
頭がおかしくなったと思われる方が自然だ。
人魚がいる。
好きになった。
人魚になりたいと思っている。
そんな話。
自分だって少し前なら信じなかった。
碧は目を閉じる。
それでも。
誰にも言わないまま決めるのは違う気がした。
家族だから。
弟だから。
凪だけには。
伝えたかった。
碧は小さく息を吐く。
そして通話ボタンを押した。
*
夜。
二人は海の見える防波堤へ座っていた。
昔からよく来た場所だった。
子供の頃。
釣りをしたこともある。
二人で海へ飛び込んだこともある。
思い出がたくさん残っている場所だった。
凪は缶コーヒーを片手に笑う。
「で?」
「珍しいな」
「兄貴から呼び出すなんて」
碧は苦笑した。
確かにそうだった。
最近はろくに話していない。
お互い忙しかった。
それでも。
こうして並ぶと不思議と落ち着く。
兄弟だった。
長い沈黙が落ちる。
波の音だけが聞こえる。
凪は急かさない。
昔からそうだった。
待ってくれる。
だから余計に言いづらい。
碧は海を見る。
暗い海だった。
その向こうに。
レヴィがいる気がした。
「なあ」
声が少し掠れる。
「俺さ」
凪が見る。
碧は苦笑した。
今さら引き返せない。
「変な話するぞ」
「うん」
「めちゃくちゃ変な話」
「うん」
凪は笑う。
それだけだった。
その反応に少しだけ救われる。
碧は静かに息を吐いた。
そして。
全部話した。
人魚のこと。
レヴィのこと。
海のこと。
求婚のこと。
自分の気持ち。
苦しくなった理由。
期待。
重圧。
競技。
疲れてしまったこと。
全部。
全部。
波へ吐き出すみたいに。
言葉が止まらなかった。
途中で何度も思う。
終わったな。
絶対引かれた。
怒られる。
呆れられる。
そんな考えが頭をよぎる。
けれど。
凪は何も言わなかった。
最後まで。
本当に最後まで。
黙って聞いていた。
碧の声だけが夜へ溶けていく。
気付けば話し終わっていた。
海風が吹く。
波が揺れる。
静かな夜だった。
碧は俯く。
「……頭おかしいよな」
小さく笑う。
笑ったつもりだった。
上手く笑えなかった。
「俺もそう思う」
「人魚だぞ」
「何言ってんだろうな」
返事はない。
凪は黙っている。
それが怖かった。
やっぱり引いたのかもしれない。
当然だ。
そう思った。
その時だった。
凪がゆっくり口を開く。
「兄貴」
碧が顔を上げる。
凪は海を見ていた。
夜の海を。
静かに。
「苦しかったんだな」
その一言だった。
碧は息を呑む。
責められなかった。
否定もされなかった。
馬鹿だとも言われなかった。
最初に出てきたのは。
その言葉だった。
苦しかったんだな。
それだけだった。
胸の奥で何かが揺れる。
波みたいに。
静かに。
大きく。
碧は目を伏せる。
言葉が出なかった。
ただ。
少しだけ泣きそうだった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




