第3話「家族」
夜だった。
家の灯りが静かにリビングを照らしている。
テレビの音。
食器の触れ合う音。
母の笑い声。
当たり前の景色だった。
ずっと見てきた景色だった。
碧はその光景を眺めながら、
ゆっくりと息を吐く。
家族は何も知らない。
レヴィのことも。
海のことも。
人魚のことも。
当たり前だ。
話したことがない。
話せるはずもない。
それでも。
碧は思う。
もし自分がいなくなったら。
母は泣くだろうか。
父は怒るだろうか。
凪はどう思うだろう。
胸の奥が静かに痛んだ。
大切だった。
家族は大切だ。
ずっと支えてもらった。
泳ぐことを応援してもらった。
勝った時は一緒に喜んでくれた。
負けた時も背中を押してくれた。
その全部を知っている。
だから。
捨てたいわけじゃない。
競技だってそうだ。
苦しかった。
辛かった。
それでも。
嫌いになったことは一度もない。
水の中は好きだった。
速く泳げた時は嬉しかった。
勝てば嬉しかった。
夢だってあった。
もっと上へ行きたいと思っていた。
全部本当だった。
全部嘘じゃない。
碧は目を閉じる。
それでも。
胸の奥に浮かぶのは海だった。
夜明け前の海。
静かな波。
自由な水。
そして。
レヴィ。
青金の瞳が浮かぶ。
何も求めない人だった。
もっと速くとも言わない。
勝てとも言わない。
期待もしない。
ただ。
碧を見ていた。
それだけだった。
碧はソファへ深く身体を預ける。
逃げているのかもしれない。
そう思った。
人魚になる。
海へ行く。
レヴィと生きる。
そんな選択。
普通じゃない。
競技から逃げているだけだと、
言われても仕方がない。
自分でも思う。
そうなのかもしれないと。
期待から。
重圧から。
数字から。
逃げたいだけなのかもしれない。
けれど。
碧はゆっくり首を振る。
違う。
少しだけ違う。
逃げたいわけじゃない。
応えようとしていた。
ずっと。
誰よりも。
応えたかった。
期待にも。
記録にも。
夢にも。
ちゃんと向き合っていた。
努力もした。
苦しくても泳いだ。
結果も出した。
だから。
疲れてしまった。
ただ。
疲れてしまった。
その言葉が胸の奥へ沈んでいく。
静かに。
深く。
波の下へ落ちていくみたいに。
碧は窓の外を見る。
夜の空だった。
海は見えない。
けれど。
潮の匂いがする気がした。
昔のことを思い出す。
子供の頃。
凪と一緒に泳いだ海。
勝ち負けなんてなかった。
タイムもなかった。
ただ楽しかった。
水の中が好きだった。
自由だった。
そして。
レヴィと泳いだ海を思い出す。
魚を追いかけた日。
夜光虫を見た日。
何も考えず波へ身を任せた日。
あの時間だけは。
本当に自由だった。
碧は小さく笑う。
少しだけ泣きそうだった。
「俺」
誰に言うでもなく呟く。
声は静かな部屋へ溶けていく。
「もっと自由に泳ぎたい」
その言葉は驚くほど素直だった。
昔みたいに。
何も背負わずに。
ただ海を好きだった頃みたいに。
そして。
レヴィみたいに。
自由に。
自由に泳ぎたい。
その願いだけが。
夜の静けさの中で、
波みたいに胸を揺らしていた。
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ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
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