第2話「それでも」
その夜は眠れなかった。
窓の外では風が鳴っている。
海も荒れているのだろう。
カーテンの隙間から見える夜空は曇っていて、
月も見えなかった。
碧はベッドへ横になったまま天井を見つめる。
目を閉じても。
浮かぶのはあの瞬間だった。
「……人魚にならないか」
低い声。
静かな海の底みたいな声。
耳から離れない。
碧は小さく息を吐いた。
意味が分からなかった。
突然だった。
冗談には聞こえなかった。
レヴィはあんなことを言う奴じゃない。
だから余計に分からない。
碧は腕で目を隠す。
思い出す。
言葉のあと。
海が荒れた。
波が変わった。
風が変わった。
まるで海そのものが怒ったみたいだった。
そしてレヴィは消えた。
「忘れてくれ」
そう言い残して。
碧は唇を噛む。
忘れられるわけがない。
そんなもの。
忘れられるはずがない。
静かな部屋だった。
けれど胸の奥だけが落ち着かない。
波が揺れるみたいにざわついている。
どうしてだろう。
普通なら。
断るとか。
困るとか。
そういう話じゃないのか。
人魚になる。
人間じゃなくなる。
海へ行く。
全部おかしい。
全部現実離れしている。
なのに。
碧はゆっくり目を閉じた。
あの時。
驚いた。
もちろん驚いた。
でも。
それだけじゃなかった。
海へ行く。
レヴィと生きる。
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が少しだけ軽くなった。
苦しさが。
消えた気がした。
碧は目を開く。
違う。
そんなはずない。
分かっている。
人魚になるなんて。
人間を捨てるなんて。
普通なら考えもしない。
家族もいる。
大学もある。
競技もある。
今まで生きてきた人生がある。
全部捨てることになる。
それなのに。
どうしてだろう。
嫌だとは思わなかった。
むしろ。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
行きたいと思った。
海へ。
レヴィのいる場所へ。
その事実が何より恐ろしかった。
碧は身体を起こす。
呼吸が浅い。
胸が苦しい。
けれど。
それは拒絶じゃない。
分かってしまった。
自分は。
レヴィといたいと思った。
海へ行きたいと思った。
人魚になれるなら。
なってもいいと思ってしまった。
そのことに。
自分自身が一番驚いていた。
「……馬鹿だろ」
小さく呟く。
返事はない。
当たり前だ。
部屋には自分しかいない。
それでも。
言わずにはいられなかった。
伴侶は一人だけ。
人魚は生涯一人しか選ばない。
レヴィから聞いた。
忘れるはずがない。
なのに。
二度目はないはずなのに。
レヴィは自分へ言った。
あの言葉を。
胸の奥が痛む。
嬉しかったのか。
苦しかったのか。
自分でも分からない。
ただ。
あの時のレヴィは。
とても辛そうだった。
海が荒れた瞬間。
レヴィは怯えていた。
まるで。
何か取り返しのつかないことをしてしまったみたいに。
碧は窓へ近付く。
夜の海は見えない。
けれど。
荒れている気がした。
不思議なほど確信があった。
レヴィは大丈夫だろうか。
そんなことを考える。
自分のことより先に。
レヴィのことを。
気付けば考えている。
波の音が聞こえた気がした。
遠く。
深い場所から。
呼ばれているみたいに。
碧は静かに目を閉じる。
忘れられない。
忘れたくない。
それが答えだった。
海へ行きたい。
レヴィに会いたい。
それでも。
まだ答えは出せない。
出してはいけない気がした。
だから碧はただ一人、
荒れる夜を見つめ続けていた。
胸の奥で揺れる波だけを抱えながら。
ご覧いただきありがとうございます。
『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




