第1話「忘れてくれ」
海は荒れていた。
さっきまで穏やかだったはずなのに。
波が何度も岩へぶつかる。
白い飛沫が夜空へ散った。
碧は砂浜へ膝をつく。
全身が濡れていた。
呼吸が整わない。
何が起きたのか分からない。
ただ。
レヴィの様子がおかしかった。
それだけは分かった。
海も。
レヴィも。
全部おかしかった。
波が砕ける。
レヴィは少し離れた場所へ立っていた。
黒髪が風に揺れる。
月明かりの中。
その姿はどこか苦しそうだった。
碧は立ち上がる。
「レヴィ」
呼ぶ。
返事はない。
海風だけが吹いていた。
「何だったんだよ」
レヴィは振り返らない。
碧は眉をひそめる。
今まで見たことがない。
こんなレヴィは。
海が荒れ始めた瞬間。
レヴィも何かに耐えるみたいな顔をしていた。
まるで。
自分自身を抑えているみたいに。
「おい」
レヴィの肩が僅かに動く。
沈黙。
長い沈黙。
そして。
低い声が落ちた。
「忘れてくれ」
碧は固まった。
波音が響く。
意味が分からない。
本当に。
何を言われたのか分からなかった。
「……は?」
レヴィは海を見る。
荒れた水面を。
暗い深海を。
そのまま続けた。
「今のことも」
少し間が空く。
「俺のことも」
碧は言葉を失った。
冗談ではない。
そんなことは分かる。
レヴィは冗談を言わない。
だから。
余計に意味が分からない。
「何だよそれ」
思わず声が強くなる。
レヴィは答えない。
波だけが荒れている。
「忘れろって」
碧は笑いそうになる。
無理だ。
そんなの。
無理に決まっている。
会いたかった。
やっと会えた。
顔を見たかった。
声が聞きたかった。
それだけだったのに。
どうして。
こんなことになる。
「忘れられるわけないだろ」
レヴィが目を閉じる。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
苦しそうな顔をした。
けれど。
次の瞬間には消えていた。
「お前は人間だ」
静かな声だった。
「だから忘れろ」
波が砕ける。
海はまだ荒れている。
まるで。
何かを拒絶するみたいに。
碧は拳を握った。
胸の奥がざわつく。
波に飲まれたみたいに。
苦しい。
レヴィはもう振り返らない。
月明かりが海へ落ちる。
その背中は遠かった。
手を伸ばしても届かないほど。
遠く。
深い海の向こうにいるようだった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




