第6話「人魚にならないか」
海は静かだった。
波が寄せては返し、
二人の身体をゆっくり揺らしている。
碧は海面へ浮かびながら空を見ていた。
レヴィは少し離れた場所で、
黙って隣にいる。
何も聞かない。
無理に話させようともしない。
ただそこにいる。
その沈黙が心地良かった。
ずっと張り詰めていたものが、
少しずつほどけていく。
波へ身を預けながら、
碧は小さく笑った。
「何かさ」
レヴィが視線を向ける。
碧は空を見たまま続けた。
「疲れた」
その言葉は驚くほど自然に零れた。
言うつもりなんてなかった。
誰にも言ったことがなかった。
それなのに。
レヴィには言えてしまった。
「別に嫌いじゃないんだ」
波が揺れる。
碧はゆっくり目を閉じた。
「泳ぐのも好きだし」
「勝ちたいし」
「期待されるのも本当は嬉しい」
全部本音だった。
嫌だったわけじゃない。
逃げたいわけでもない。
努力もしてきた。
結果も出してきた。
だからこそ。
苦しかった。
「でもさ」
声が掠れる。
「ずっと応えなきゃいけないんだ」
波が揺れる。
胸の奥も揺れる。
「次も」
「その次も」
「もっと速く」
「もっと勝て」
「もっと期待してる」
碧は笑おうとした。
上手く笑えなかった。
「もう何が好きで泳いでたのか分かんなくなってさ」
その瞬間。
涙が落ちた。
海へ溶ける。
どこまでが海水で、
どこからが涙なのか分からない。
それでも。
止まらなかった。
「俺」
声が震える。
「ちゃんと頑張ってたんだけどな」
碧は顔を覆う。
情けない。
格好悪い。
そう思うのに。
止まらない。
「応えようとしてたんだ」
「ずっと」
「ずっと」
言葉が崩れていく。
涙と一緒に。
波が揺れる。
レヴィは何も言わない。
慰めない。
励まさない。
ただ聞いている。
それが嬉しかった。
初めてだった。
何も求められずに話せるのは。
だから。
止まらなくなった。
苦しかったこと。
怖かったこと。
逃げたいと思ったこと。
全部。
全部。
海へ吐き出すみたいに零れていく。
どれくらい話しただろう。
気付けば涙も止まっていた。
空は少し赤くなり始めている。
碧は目元を擦った。
「悪い」
小さく笑う。
「こんな話して」
少し間を置く。
「しかも泣くとか」
情けなくて笑ってしまう。
「格好悪いな」
波が揺れる。
沈黙が落ちる。
レヴィは碧を見ていた。
静かに。
ずっと。
その瞳の奥にある感情を、
碧は知らない。
レヴィの胸の奥では、
別の波が荒れていた。
苦しそうだった。
痛そうだった。
今にも沈みそうだった。
碧が。
目の前の人間が。
どうしようもなく。
苦しそうだった。
助けたいと思った。
楽にしてやりたいと思った。
昔と同じだった。
あの日と。
蒼士郎と。
違う。
分かっている。
碧は蒼士郎じゃない。
それなのに。
それでも。
海へ連れて行きたかった。
苦しみのない場所へ。
自由に泳げる場所へ。
レヴィの唇がわずかに動く。
「……海」
碧が顔を上げる。
「え?」
そして。
言葉が零れた。
無意識だった。
止められなかった。
「……人魚にならないか」
波が止まった気がした。
碧の瞳が大きく見開かれる。
レヴィも固まる。
しまった。
本当にしまった。
理解した瞬間。
海が揺れた。
深海の底から何かが軋む音が響く。
波が大きくなる。
風が変わる。
海流が乱れる。
海が拒絶している。
碧ではない。
レヴィを。
レヴィは息を呑む。
蒼士郎以来。
二度目の求婚。
本来ならありえない。
許されない。
禁忌だった。
「レヴィ!」
波が大きく跳ねる。
碧の身体が傾く。
レヴィは反射的に腕を伸ばした。
抱き寄せる。
そのまま浜辺へ向かう。
海はさらに荒れていく。
まるで怒っているみたいに。
碧は何も言えない。
言葉を失っている。
当然だった。
レヴィ自身ですら信じられない。
何を言ったのか。
何をしてしまったのか。
全部分かっていた。
浜辺へ辿り着く。
レヴィは碧を砂浜へ降ろした。
波が荒れている。
風も強い。
静かな海はもうどこにもなかった。
レヴィは唇を噛む。
碧を見ることができない。
見れば。
きっとまた言ってしまう。
だから。
背を向けた。
そして。
小さく呟く。
「……すまん」
声が掠れる。
「忘れてくれ」
それだけ言って。
レヴィは荒れる海へ消えた。
碧は一人、
砂浜へ残される。
波の音だけが響いている。
胸の奥が激しく揺れていた。
海と同じように。
荒れていた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
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