第5話「そんな顔で泳ぐな」
海は静かだった。
碧は波へ身体を預けたまま、
空を見上げている。
風が吹く。
波が揺れる。
それだけだった。
今日は何も考えたくなかった。
タイムも。
順位も。
期待も。
全部。
少しだけ忘れたかった。
海へ来れば楽になると思った。
実際。
少しだけ楽になった。
けれど。
胸の奥に沈んだ重さは消えない。
身体の力を抜く。
波がゆっくり身体を揺らしていく。
このままどこかへ流されてもいい。
そんなことを思った。
疲れていた。
本当に。
少しだけ。
疲れていた。
「……そんな顔で泳ぐな」
低い声だった。
静かな海の底みたいな声。
碧は目を見開く。
心臓が大きく跳ねた。
聞き間違えるはずがない。
勢いよく身体を起こす。
波が揺れる。
視線を向ける。
そこにいた。
青金の瞳。
陽光を受けて輝く銀の髪。
海の中からこちらを見ている。
何度も夢に見た姿だった。
「……レヴィ」
声が掠れる。
レヴィは何も言わない。
ただ静かに碧を見ている。
その視線に。
碧はようやく気付いた。
自分がどんな顔をしていたのか。
苦しそうな顔。
泣きそうな顔。
そんな顔だったのだろう。
レヴィはゆっくり近付いてくる。
波が二人の間を揺れる。
碧は目を逸らせなかった。
会いたかった。
その言葉が喉まで出かかる。
けれど。
言えない。
何ヶ月も会っていなかった。
探した。
待った。
諦めようとした。
それでも忘れられなかった。
そんなこと。
言えるはずがなかった。
沈黙が落ちる。
不思議と嫌な沈黙ではない。
昔からそうだった。
レヴィといる時だけは。
何も話さなくても苦しくない。
海が静かに揺れる。
碧は小さく笑った。
「久しぶりだな」
レヴィは少しだけ目を細める。
「そうだな」
それだけだった。
それだけなのに。
胸の奥が少し軽くなる。
ずっと張り詰めていた糸が、
少しだけ緩むみたいに。
碧は視線を落とした。
海面が揺れている。
そこへ自分の顔が映る。
酷い顔だった。
疲れている。
分かっていた。
レヴィは静かに口を開く。
「何があった」
碧は笑う。
誤魔化すみたいに。
「別に」
レヴィは何も言わない。
ただ見ている。
逃がさないように。
見透かすように。
静かに。
碧はその視線から逃げられなかった。
波が揺れる。
胸の奥も揺れる。
どうしてだろう。
誰にも言えなかったことなのに。
今なら話してしまいそうだった。
レヴィの前だと。
ずっと隠していたものが、
少しずつ浮かび上がってくる。
深海の底から引き上げられるみたいに。
苦しい。
でも。
少しだけ安心していた。
会えた。
本当に会えた。
それだけで。
泣きそうになるくらい。
碧は目を閉じる。
潮風が頬を撫でる。
そして。
小さく息を吐いた。
「なあ」
レヴィが見る。
碧は笑おうとした。
上手く笑えなかった。
「少しだけ」
声が掠れる。
「話聞いてくれないか」
海が静かに揺れていた。
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ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
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