第4話「海」
朝練を休んだ。
自分でも驚いた。
熱があるわけじゃない。
怪我をしたわけでもない。
身体は動く。
泳げる。
それでも。
今日はプールへ行きたくなかった。
大学へ向かう気にもなれなかった。
スマホには通知が溜まっている。
コーチからの連絡。
部員からのメッセージ。
大会の記事。
何も開かないまま、
碧は部屋を出た。
どこへ行くのかも考えていなかった。
気付けば海へ向かっていた。
春の海は静かだった。
夏みたいな賑やかさはない。
人も少ない。
波だけがゆっくり砂浜へ寄せては返している。
碧は靴を脱ぎ、
そのまま海へ入った。
冷たい。
けれど嫌じゃなかった。
むしろ心地いい。
何も考えなくて済む気がした。
腰まで浸かり、
そのまま身体を倒す。
水面へ浮かぶ。
空が見えた。
青い空だった。
雲が流れている。
風が吹く。
波が身体を揺らす。
ただそれだけ。
泳がない。
進まない。
どこかへ向かわない。
ただ浮いている。
そんなことをしたのは、
いつ以来だろう。
競技を始めてからはずっと。
速く泳ぐことばかり考えていた。
タイム。
フォーム。
呼吸。
順位。
勝敗。
数字。
数字。
数字。
気付けば。
泳ぐことは戦うことになっていた。
波が揺れる。
身体がゆっくり上下する。
海は何も言わない。
期待もしない。
評価もしない。
頑張れとも。
もっとできるとも言わない。
ただそこにある。
その静けさが、
どうしようもなく心地良かった。
碧は目を閉じる。
胸の奥に溜まっていたものが、
少しずつ沈んでいく気がした。
いや。
違う。
沈んでいるのは自分かもしれない。
深海の底へ。
静かな場所へ。
何も聞こえない場所へ。
逃げたい。
そう思った。
期待も。
比較も。
数字も。
全部。
少しだけ忘れたかった。
波が頬を撫でる。
潮の匂いがする。
その時だった。
ふと。
海の奥を見たくなった。
理由は分からない。
ただ。
呼ばれている気がした。
海が。
静かに。
ゆっくりと。
おいで、と。
そんなはずないのに。
碧は目を開ける。
遠くの水平線が光っている。
あの日と同じだった。
レヴィと初めて出会った日。
海を教えてもらった日。
自由に泳ぐことを思い出した日。
全部。
この海だった。
「……レヴィ」
名前が零れる。
返事はない。
波だけが揺れている。
もう何ヶ月も会っていない。
いるかどうかも分からない。
それでも。
今だけは。
会える気がした。
理由なんてない。
根拠もない。
ただ。
海が呼んでいる気がした。
レヴィが呼んでいる気がした。
碧は静かに目を閉じる。
波に身体を預ける。
何も考えない。
何も頑張らない。
ただ浮かぶ。
ただ揺られる。
その時間だけが、
今の碧を支えていた。
まるで。
溺れる寸前の人間へ差し出された、
たった一本の浮き輪みたいに。
海は静かに揺れていた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




