第2話「数字」
プールの水面は静かだった。
スタート台の上へ立ち、
碧はまっすぐ前を見る。
深呼吸をひとつ。
身体は悪くない。
疲労も抜けている。
睡眠も取った。
調整もした。
だから。
今日は出ると思っていた。
少なくとも。
自分ではそう思っていた。
電子音が鳴る。
飛び込む。
水を掻く。
腕を伸ばす。
身体を前へ運ぶ。
何千回も繰り返してきた動きだった。
何も考えなくてもできる。
昔はそうだった。
今は違う。
泳ぎながら考えてしまう。
今のターンはどうだった。
今のストロークは。
今の呼吸は。
頭のどこかで数字を追っている。
タイム。
順位。
記録。
その言葉が水の中まで追いかけてくる。
ゴールの壁へ触れた。
息を吐く。
顔を上げる。
電光掲示板を見る。
数字が表示される。
碧はしばらく動けなかった。
まただ。
また届かない。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
それなのに。
その少しが遠かった。
*
「深海」
コーチが近付いてくる。
「はい」
「悪くない」
碧は頷く。
コーチは続けた。
「ただ去年のお前ならもっと出てたな」
責める口調ではない。
事実を言っただけだ。
それが一番苦しかった。
「次だ」
「期待してるぞ」
碧は笑う。
「はい」
自然に笑えたと思う。
少なくとも。
そう見えたはずだった。
*
帰り道。
大学の部室で。
誰かがスマホを見ながら言った。
「そういえばさ」
「ん?」
「○○選手、最近すごいらしいな」
別の部員も頷く。
「あー見た」
「めっちゃタイム伸びてる」
「次の大会期待だよな」
碧は黙ってペットボトルを開けた。
炭酸の音が小さく響く。
誰も悪気はない。
その選手も知っている。
努力家だ。
速い。
結果も出している。
だから期待される。
当たり前だった。
当たり前なのに。
胸の奥がざわつく。
波が揺れるみたいに。
静かに。
何度も。
「深海は大丈夫だろ」
誰かが言う。
「そのうち戻すって」
戻す。
その言葉が妙に耳へ残った。
戻す。
つまり今は違う。
今は落ちている。
そういうことだ。
碧は曖昧に笑った。
「だといいけどな」
*
その日の夜。
部屋へ戻る。
机の上には大会資料。
スマホには練習記録。
タイム。
順位。
ラップ。
数字ばかりだった。
数字は正しい。
嘘をつかない。
だから残酷だ。
頑張った。
努力した。
そんなことは関係ない。
結果だけが残る。
数字だけが残る。
碧はスマホを伏せた。
見たくない。
そう思った。
けれど。
数秒後にはまた手に取っている。
確認する。
比べる。
去年の自分と。
他の選手と。
何度も。
何度も。
終わりがない。
まるで海流みたいだった。
気付いた時には巻き込まれている。
抜け出せない。
碧は椅子へ深く腰掛けた。
窓の外は暗い。
静かな夜だった。
けれど。
心だけが静かじゃない。
数字が頭の中を泳いでいる。
タイム。
順位。
記録。
期待。
比較。
その全部が絡み合い、
ゆっくり首を絞めてくる。
息が苦しい。
ふと。
海を思い出した。
夜明け前の海。
静かな波。
魚の群れ。
そして。
「なんで急ぐ」
そう言った人魚の声。
碧は目を閉じる。
あの時。
レヴィは笑わなかった。
責めもしなかった。
タイムの話もしなかった。
順位も。
期待も。
何も言わなかった。
ただ。
海を見ていた。
その記憶だけが、
冷たい水みたいに胸へ落ちる。
静かで。
優しくて。
少しだけ苦しかった。
会いたい。
そう思った。
けれど。
海は遠い。
レヴィもいない。
部屋には自分ひとりだけだった。
数字だけが残る。
まるで。
深海の底へ沈むみたいに。
ゆっくりと。
確実に。
碧は息苦しさを抱えたまま、
目を閉じた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
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