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深海に溺れる  作者: 深幸-みさき-
第7章:「溺れる」
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第2話「数字」


プールの水面は静かだった。


スタート台の上へ立ち、

碧はまっすぐ前を見る。


深呼吸をひとつ。


身体は悪くない。


疲労も抜けている。


睡眠も取った。


調整もした。


だから。


今日は出ると思っていた。


少なくとも。


自分ではそう思っていた。


電子音が鳴る。


飛び込む。


水を掻く。


腕を伸ばす。


身体を前へ運ぶ。


何千回も繰り返してきた動きだった。


何も考えなくてもできる。


昔はそうだった。


今は違う。


泳ぎながら考えてしまう。


今のターンはどうだった。


今のストロークは。


今の呼吸は。


頭のどこかで数字を追っている。


タイム。


順位。


記録。


その言葉が水の中まで追いかけてくる。


ゴールの壁へ触れた。


息を吐く。


顔を上げる。


電光掲示板を見る。


数字が表示される。


碧はしばらく動けなかった。


まただ。


また届かない。


少しだけ。


ほんの少しだけ。


それなのに。


その少しが遠かった。



「深海」


コーチが近付いてくる。


「はい」


「悪くない」


碧は頷く。


コーチは続けた。


「ただ去年のお前ならもっと出てたな」


責める口調ではない。


事実を言っただけだ。


それが一番苦しかった。


「次だ」


「期待してるぞ」


碧は笑う。


「はい」


自然に笑えたと思う。


少なくとも。


そう見えたはずだった。



帰り道。


大学の部室で。


誰かがスマホを見ながら言った。


「そういえばさ」


「ん?」


「○○選手、最近すごいらしいな」


別の部員も頷く。


「あー見た」


「めっちゃタイム伸びてる」


「次の大会期待だよな」


碧は黙ってペットボトルを開けた。


炭酸の音が小さく響く。


誰も悪気はない。


その選手も知っている。


努力家だ。


速い。


結果も出している。


だから期待される。


当たり前だった。


当たり前なのに。


胸の奥がざわつく。


波が揺れるみたいに。


静かに。


何度も。


「深海は大丈夫だろ」


誰かが言う。


「そのうち戻すって」


戻す。


その言葉が妙に耳へ残った。


戻す。


つまり今は違う。


今は落ちている。


そういうことだ。


碧は曖昧に笑った。


「だといいけどな」



その日の夜。


部屋へ戻る。


机の上には大会資料。


スマホには練習記録。


タイム。


順位。


ラップ。


数字ばかりだった。


数字は正しい。


嘘をつかない。


だから残酷だ。


頑張った。


努力した。


そんなことは関係ない。


結果だけが残る。


数字だけが残る。


碧はスマホを伏せた。


見たくない。


そう思った。


けれど。


数秒後にはまた手に取っている。


確認する。


比べる。


去年の自分と。


他の選手と。


何度も。


何度も。


終わりがない。


まるで海流みたいだった。


気付いた時には巻き込まれている。


抜け出せない。


碧は椅子へ深く腰掛けた。


窓の外は暗い。


静かな夜だった。


けれど。


心だけが静かじゃない。


数字が頭の中を泳いでいる。


タイム。


順位。


記録。


期待。


比較。


その全部が絡み合い、

ゆっくり首を絞めてくる。


息が苦しい。


ふと。


海を思い出した。


夜明け前の海。


静かな波。


魚の群れ。


そして。


「なんで急ぐ」


そう言った人魚の声。


碧は目を閉じる。


あの時。


レヴィは笑わなかった。


責めもしなかった。


タイムの話もしなかった。


順位も。


期待も。


何も言わなかった。


ただ。


海を見ていた。


その記憶だけが、

冷たい水みたいに胸へ落ちる。


静かで。


優しくて。


少しだけ苦しかった。


会いたい。


そう思った。


けれど。


海は遠い。


レヴィもいない。


部屋には自分ひとりだけだった。


数字だけが残る。


まるで。


深海の底へ沈むみたいに。


ゆっくりと。


確実に。


碧は息苦しさを抱えたまま、

目を閉じた。

ご覧いただきありがとうございます。

『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『夜凪に溶ける』


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