第1話「期待」
春の陽射しがプールの水面へ反射している。
眩しい。
それなのに。
今日はやけに水が重かった。
碧は壁へ手をつき、
荒くなった呼吸を整える。
肺が苦しい。
腕も重い。
けれど。
それ以上に気になったのは。
電光掲示板だった。
表示されたタイムを見て、
胸の奥が静かに沈む。
遅い。
分かっていた。
泳いでいる途中から。
身体の感覚で。
水の流れで。
分かっていた。
それでも。
数字になると逃げられない。
「深海」
コーチの声が響く。
碧は顔を上げた。
「はい」
「疲れてるか?」
「いえ」
反射みたいに答える。
コーチは少し考えるような顔をした。
「無理はするな」
「次の記録会もある」
「焦らなくていい」
優しい声だった。
責めているわけじゃない。
分かっている。
なのに。
胸の奥へ小さな重りが沈んでいく。
焦らなくていい。
その言葉の裏にあるものを、
勝手に考えてしまう。
焦るな。
戻せ。
期待している。
そう聞こえてしまう。
碧は小さく息を吐いた。
プールサイドから上がる。
身体が重い。
春なのに。
まだ冬が残っているみたいだった。
*
更衣室では、
部員たちが話していた。
「最近調子悪いのか?」
「疲労じゃね?」
「大会続いてたしな」
軽い会話だった。
悪意なんてない。
むしろ心配している。
それくらい分かる。
「まあ次は大丈夫だろ」
「深海だし」
誰かが笑う。
碧も笑った。
「何だよそれ」
「いや事実だろ」
「期待してるからな」
その言葉に。
胸の奥が少しだけざわついた。
波が揺れるみたいに。
静かに。
静かに。
*
家へ帰ると母がいた。
「おかえり」
「ただいま」
夕食の匂いがする。
いつもの家。
いつもの景色。
母は碧を見ると、
少しだけ安心したように笑った。
「今度の大会楽しみにしてるからね」
悪気なんてない。
応援しているだけだ。
だから。
「うん」
そう返した。
それだけだった。
食卓へ座る。
テレビではスポーツニュースが流れている。
新しい若手選手。
注目株。
将来有望。
そんな言葉が並ぶ。
碧は無意識に視線を逸らした。
*
夜。
ベッドへ横になる。
眠らなければならない。
明日も朝練だ。
身体を休めなければならない。
そう思うのに。
目が閉じられない。
天井を見つめる。
静かな部屋だった。
けれど。
頭の中だけが騒がしい。
タイム。
順位。
大会。
期待。
期待。
期待。
その言葉ばかりが波みたいに押し寄せる。
誰も責めていない。
誰も怒っていない。
それなのに。
溺れそうだった。
期待されることには慣れていたはずだ。
子供の頃から。
速かった。
勝っていた。
結果を出していた。
だから期待される。
それが当たり前だった。
なのに。
最近は違う。
タイムが落ちる。
結果が出ない。
周囲の声が増える。
心配される。
期待される。
励まされる。
その全部が重い。
深海の水みたいに。
ゆっくり。
確実に。
身体へ絡みついてくる。
碧は目を閉じた。
苦しい。
そう思った。
ふと。
頭の中へ海が浮かぶ。
夜明け前の海。
静かな波。
冷たい潮風。
そして。
青金の瞳。
レヴィ。
その名前が浮かんだ瞬間。
胸の奥が少しだけ軽くなる。
どうしてだろう。
会えなくなって何ヶ月も経つのに。
今でも思い出す。
海を見るたび。
苦しくなるたび。
会いたいと思う。
碧は小さく目を閉じた。
会いたい。
ただ。
会いたかった。
その願いだけが。
静かに胸の奥へ沈んでいった。
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