第3話「願い」
深海は静かだった。
海底遺跡の柱には淡い光が揺れ、
魚たちが群れを成して通り過ぎていく。
その光景を眺めながら、
レヴィは小さく目を閉じた。
最近、
浅瀬へ行っていない。
碧にも会っていない。
会わないと決めた。
それだけだ。
そう思っていた。
「お兄様」
柔らかな声が響く。
振り返ると、
ノアがいた。
長い髪を海流へ遊ばせながら、
楽しそうに近付いてくる。
「どうした」
「聞きたいことがあるの」
ノアは笑う。
その笑顔は昔から変わらない。
無邪気で。
好奇心旺盛で。
だからこそ。
時々、
危うい。
「海の魔女って本当にいるの?」
レヴィはわずかに眉を寄せた。
「いる」
「会ったことある?」
「ない」
短い会話だった。
ノアはそれでも気にした様子もなく、
楽しそうに続ける。
「どんな願いでも叶えるの?」
海流が静かに揺れた。
レヴィはノアを見る。
「何故そんなことを聞く」
「別に」
ノアは笑う。
「ちょっと気になっただけ」
その言葉を、
レヴィは信じなかった。
深海は静かだった。
けれど胸の奥だけがざわつく。
海の魔女。
願い。
その言葉は決して軽くない。
人魚なら誰でも知っている。
願いには代償がある。
そして。
代償は選べない。
ノアも知らないはずがなかった。
「近付くな」
レヴィは静かに言う。
「面白いものではない」
ノアは少しだけ唇を尖らせた。
「分かってるよ」
けれど。
その目は納得していなかった。
*
それからだった。
ノアの様子がおかしくなったのは。
海の魔女について聞く。
願いについて聞く。
古い歌について調べる。
深海の奥へ行こうとする。
そんなことが増えた。
レヴィは何度も理由を聞いた。
けれど。
ノアは笑うだけだった。
「何でもない」
その答えが一番信用できなかった。
そしてある日。
深海遺跡の回廊で。
ノアがぽつりと呟いた。
「もし」
その声は小さかった。
海流へ溶けるほどに。
「もし願いが叶うなら」
レヴィは足を止める。
ノアは前を向いたまま続けた。
「私は──」
その瞬間だった。
「やめろ」
低い声が響く。
ノアが振り返る。
驚いた顔だった。
レヴィ自身も驚いていた。
こんな声を出したのは久しぶりだった。
深海が静まり返る。
魚たちさえ動きを止めたように見えた。
レヴィはノアを見つめる。
青金の瞳が冷たく揺れる。
「二度とその願いを口にするな」
ノアの目が大きく開かれる。
「お兄様……?」
「二度とだ」
その声は静かだった。
けれど。
怒りよりも。
恐怖に近かった。
ノアは何も言えなくなる。
レヴィは目を閉じた。
胸の奥で、
遠い記憶が波立つ。
夏の海。
黒髪の人間。
叶わなかった願い。
失われた歌。
深海へ沈めたはずの記憶。
それが静かに浮かび上がる。
ノアは知らない。
知らなくていい。
同じ痛みを味わう必要などない。
レヴィはゆっくり背を向けた。
海流が身体を押していく。
深海は暗い。
静かだ。
けれど。
最近はその静けさに落ち着かない。
ノアの様子が気になった。
どこへ行くのか。
何を考えているのか。
放っておけなかった。
そのせいだろうか。
気付けば浅瀬へ向かう回数も減っていた。
碧が来ていることは知っている。
海が教える。
今日も来たと。
今日も泳いでいると。
それでも。
見に行くことはなかった。
行けなかった。
深海の中で、
レヴィは静かに目を閉じる。
遠く。
遥か上。
光の届く場所に碧がいる。
そのことだけを知りながら。
レヴィは今日も深海へ留まっていた。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




