第5話「欲しい」
深海は静かだった。
海底遺跡。
かつてはこの静けさを心地よいと思っていた。
蒼士郎を失ったあとも、長い年月をひとりで過ごしてきたあとも、この場所は変わらずレヴィを受け入れてくれた。
何も求めず、何も奪わない。
だから忘れられると思っていた。
伴侶を選んだ記憶も、その痛みも。
けれど今は違う。
静かなはずの深海にいるのに、意識は何度も碧へ向かってしまう。
蒼士郎を思い出す時は、過去を見ている感覚だった。
懐かしく、痛く、けれど終わった記憶として。
だが碧を思う時は違う。
気付けば今日の姿を想像している。
今何をしているのかを考えている。
会いたいのかと問われても分からない。
恋なのかと問われても答えられない。
ただ、その存在が頭から離れない。
青白い光を放つ珊瑚。
遠くを泳ぐ魚の群れ。
何百年も変わらない景色。
レヴィはひとり、
遺跡の高い柱へ腰を下ろしていた。
視線は海の上へ向いている。
正確には。
海の向こう。
陸の方角だった。
碧は今頃、
大学にいるのだろう。
講義を受けているのか。
友人と話しているのか。
朝練を終え、
仲間たちと笑っているのかもしれない。
レヴィは小さく目を閉じた。
考える必要のないことだった。
本来なら。
人間の生活など関係ない。
人魚の生きる場所は海だ。
人間は陸。
交わることなどない。
それが当たり前だった。
蒼士郎の時も。
そうだった。
静かな記憶が浮かぶ。
夏の海。
黒髪の人間。
楽しそうに笑う声。
蒼士郎は海を愛していた。
泳ぐことも。
海を見ることも。
レヴィと過ごす時間も。
好きだったのだと思う。
だから惹かれた。
あの時は分かっていた。
恋だった。
伴侶にしたいと思った。
共に生きたいと思った。
だから求婚した。
そして。
断られた。
その結果も。
その痛みも。
全部理解している。
レヴィはゆっくり目を開いた。
海が揺れる。
深海の光が静かに滲む。
けれど。
碧は違う。
蒼士郎ではない。
最初はそう思った。
似ているだけだと。
泳ぎ方も違う。
性格も違う。
生き方も違う。
海へ来る理由さえ違う。
何一つ同じではない。
それなのに。
気付けば見ている。
海へ来る時間を覚えている。
笑う顔を探している。
友人の話を聞くだけで、
胸がざわつく。
会えない日は、
海が妙に静かだった。
蒼士郎の時とは違う。
あの時はもっと単純だった。
好きだった。
だから伴侶にしたかった。
けれど碧への感情には、まだ名前がつけられない。
人魚にとって、
こんな感情は初めてだった。
それでも。
ひとつだけ確かなことがある。
レヴィはゆっくり目を伏せた。
脳裏に浮かぶ。
朝焼けの海。
笑う碧。
魚を追いかける姿。
海が好きだと言った横顔。
胸の奥が静かに波打つ。
そして。
思ってしまう。
海へ連れて行きたい。
その感情に、
レヴィ自身が僅かに息を止めた。
深海は静かだった。
誰もいない。
聞いている者もいない。
それでも。
その願いだけは妙にはっきりしていた。
海を見せたい。
深海を見せたい。
人魚の世界を見せたい。
もっと近くへ。
もっと深くへ。
連れて行きたい。
碧には帰る場所がある。
家族がいる。
友人がいる。
大学がある。
夢がある。
それなのに。
その全てから遠ざけてでも、
海へ引き寄せたいと思ってしまう。
レヴィは目を閉じた。
駄目だ。
その考えは危険だった。
蒼士郎の時に知っている。
人間には人間の生き方がある。
海だけが世界ではない。
だから。
求めてはいけない。
そう分かっている。
それでも胸の奥は静かに囁く。
欲しい、と。
レヴィは小さく息を吐いた。
青金の瞳が揺れる。
人魚は伴侶を一度しか選ばない。
それが掟だ。
それが本能だ。
だから本来。
二度目はない。
蒼士郎で終わったはずだった。
終わらなければならなかった。
けれど。
朝焼けの海で笑う人間を思い出す。
海が好きだったと、
少し嬉しそうに笑った顔を。
その記憶が胸へ沈む。
深く。
静かに。
逃げ場を塞ぐように。
レヴィは目を閉じた。
そして誰にも聞こえない声で呟く。
「……アオ」
その名だけが。
深海の静寂へ溶けていった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




