第4話「一番近い」
夜明け前の海は静かだった。
風もない。
波も穏やかだ。
碧は海面に浮かびながら、
ぼんやり空を見上げていた。
隣にはレヴィがいる。
最近は会話も増えた。
沈黙も嫌じゃない。
むしろ心地良いと思う時さえある。
不思議なことだった。
人魚相手なのに。
「なあ」
碧が声をかける。
レヴィが視線だけ向けた。
「前から気になってたんだけどさ」
「なんだ」
碧は少し考える。
そして。
「伴侶ってそんなに特別なのか」
レヴィが瞬きをした。
静かな海だった。
波の音だけが聞こえる。
「特別だ」
迷いなく答える。
その即答に、碧は少しだけ驚く。
人間ならもっと迷う気がした。
誰か一人を絶対だと言い切ることに、
どこか怖さを感じるからだ。
碧は苦笑する。
「いや、それは分かる」
「お前らそういうの一直線だし」
レヴィは眉を寄せた。
「悪いことか」
「悪くはないけど」
碧は笑う。
「だいぶ重たいぞ」
レヴィは納得していない顔だった。
しばらく沈黙が落ちる。
やがて。
碧がぽつりと聞いた。
「家族とは違うのか」
レヴィは少し考えた。
海面へ視線を落とす。
「違う」
短い返事。
「どう違う」
波が揺れる。
朝焼け前の淡い光が海へ滲む。
レヴィは言葉を探しているようだった。
人魚にとっては当たり前のことだ。
当たり前すぎて、
説明が難しいのかもしれない。
やがて。
「家族は、生まれた時からいる」
そう言った。
「伴侶は、自分で選ぶ」
碧は少し頷く。
「まあ、それは人間も同じか」
レヴィはさらに考える。
そして。
「一番近い」
碧は目を瞬かせた。
「近い?」
「ああ」
レヴィは静かに頷く。
「誰よりも」
波が揺れる。
碧は何となく黙った。
レヴィは続ける。
「親よりも」
「兄弟よりも」
「友よりも」
その声は静かだった。
当たり前のことを話しているだけ。
そんな口調。
けれど。
どこか重い。
「何かあれば、まず伴侶だ」
レヴィは海を見る。
「それが普通だ」
碧は思わず苦笑した。
「ほらやっぱ重い」
「そうか?」
「そうだよ」
人魚は不思議そうな顔をする。
本気で分からないらしい。
碧は肩を竦めた。
「人間はもっと色々あるからな」
「家族とか」
「友達とか」
「仕事とか」
「夢とか」
言いながら。
少しだけ胸が痛んだ。
夢。
その言葉だけが。
自分はまだ何かを選べていない。
大事なものが増えるほど、
一つだけを最優先にするなんて難しいと思う。
だからレヴィの価値観は、
少し羨ましくて、少し息苦しかった。
レヴィはそんな碧を見ていた。
しばらく。
何も言わない。
そして。
ぽつりと聞く。
「それらより大事なものはないのか」
碧は少し考えた。
答えに困る。
あるのかもしれない。
ないのかもしれない。
まだ分からない。
だから。
「さあ」
としか答えられなかった。
レヴィは静かに目を伏せる。
人魚なら迷わない。
伴侶だ。
選ぶまでもない。
それは愛情だけではない。
生きる上での軸みたいなものだ。
だから迷う碧が理解できない。
同時に、その迷いを当然のように抱えている人間という存在が、
少しだけ遠く感じた。
けれど人間は違うらしい。
その違いが、
少しだけ不思議だった。
空がゆっくり明るくなる。
朝日が近い。
碧は海面へ浮かびながら、
ふと笑った。
「でもさ」
「なんだ」
「そこまで大事にされるなら」
少し照れくさそうに言う。
「伴侶っていいな」
レヴィの瞳が揺れた。
本当に。
ほんの少しだけ。
その言葉に胸がざわつく。
碧にとっては軽い感想なのだろう。
だがレヴィには違った。
伴侶とは憧れるものではない。
いつか命ごと預ける相手だ。
だからこそ、
その言葉を無邪気に口にする碧に、
説明できない感情が生まれた。
碧は気付かない。
朝焼けの空を見ている。
レヴィはその横顔を見る。
海を見ている顔。
笑う顔。
少し困った顔。
最近。
知っている表情が増えた。
波が静かに揺れる。
やがて碧が立ち上がった。
「そろそろ行く」
大学がある。
朝練もある。
人間の時間だ。
レヴィは頷く。
碧は砂浜へ向かう。
その背中を見ながら。
レヴィは黙っていた。
友達。
大学。
家族。
人間の世界。
碧には帰る場所がたくさんある。
自分の知らない場所。
自分の届かない場所。
胸の奥が少しだけ重くなる。
理由は分からない。
分かりたくもなかった。
碧は振り返る。
「じゃあな」
いつもの笑顔だった。
レヴィはしばらく黙る。
そして。
「……また来るのか」
碧が笑う。
「来るけど?」
当然だろ。
そんな顔だった。
レヴィは小さく目を伏せる。
「そうか」
短い返事。
けれど。
胸の奥に広がった重さは、
少しだけ軽くなっていた。
朝日が昇る。
海は今日も静かだった。
ご覧いただきありがとうございます。
『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




