第1話「人魚の恋」
夜明け前の海だった。
空はまだ暗く、
水平線だけがわずかに白んでいる。
碧は海面に浮かびながら、
ぼんやり空を見上げていた。
隣にはレヴィがいる。
最近はこうして過ごす時間が増えた。
泳いだり。
話したり。
ただ海を眺めたり。
不思議なことに、
沈黙も苦にならない。
碧は小さく息を吐いた。
そしてふと思う。
そういえば。
人魚のことを、
自分はほとんど知らない。
「なあ」
レヴィが視線だけ向ける。
碧は何となく聞いてみた。
「人魚にも恋人とかいるのか」
静かな海だった。
波の音だけが聞こえる。
レヴィは少し考える。
そして。
「伴侶ならいる」
碧は目を瞬かせた。
「伴侶?」
「そうだ」
即答だった。
碧は首を傾げる。
「何が違うんだよ」
人間なら恋人も伴侶も、
そこまで大きな違いはない。
付き合って。
結婚して。
家族になる。
そんなイメージだ。
けれど。
レヴィは少しだけ眉を寄せた。
まるで碧の質問の意味が分からないみたいに。
「全然違う」
その言葉に、
碧は思わず笑う。
「そんな真面目な顔する話か?」
レヴィは答えない。
代わりに静かに海を見る。
夜明け前の海。
波が揺れる。
長い沈黙のあと。
レヴィはぽつりと言った。
「人魚は伴侶を一人しか持たない」
碧の笑顔が少し止まる。
「……へぇ」
「生涯一人だ」
波の音が響く。
碧は何となく聞き返す。
「別れたりは」
「しない」
「死別とか」
「してもだ」
レヴィは当たり前みたいに言った。
「伴侶は変わらない」
碧は思わず黙る。
人間とは違う。
かなり。
想像していた以上に。
レヴィは静かに続ける。
「選ぶのは一度だけだ」
「一度?」
「ああ」
「じゃあ失敗したら終わりじゃん」
思わず口から出る。
レヴィは不思議そうな顔をした。
「失敗?」
「いやだから」
碧は笑う。
「好きになった相手が違ったとか」
「喧嘩したとか」
「後悔したとか」
レヴィはしばらく考えた。
本当に考えていた。
そして。
「何故後悔する」
真顔だった。
碧は吹き出した。
「お前さ」
「なんだ」
「重い」
レヴィが眉を寄せる。
意味が分からないらしい。
碧は笑いながら肩を竦めた。
「人間はそんな簡単じゃないんだよ」
「そうか」
「そうだよ」
レヴィは静かに海面を見る。
その横顔は真剣だった。
人魚にとっては冗談じゃない。
本当にそういう生き物なのだろう。
一度選んだら終わり。
一生。
変わらない。
碧には少し理解できなかった。
けれど。
なぜか嫌ではなかった。
むしろ。
少しだけ羨ましいと思った。
迷わなくていいから。
揺れなくていいから。
波が静かに揺れる。
空が少しずつ明るくなっていく。
その時。
レヴィが不意に言った。
「人間は違うのか」
碧は笑う。
「全員じゃないけどな」
「でも」
少し考える。
「そんな風に一人だけを選べるやつって、案外少ないかも」
レヴィは黙った。
朝焼けの光が、
青金の瞳を淡く照らしている。
その表情はどこか遠かった。
まるで。
ずっと昔の誰かを思い出しているみたいに。
碧は気付かない。
その言葉が。
レヴィの胸の奥に沈んでいったことを。
――人魚は伴侶を一人しか持たない。
それは掟であり。
本能であり。
生き方そのものだった。
だから。
レヴィにはまだ分からない。
どうして碧を見てしまうのか。
どうして碧と過ごす時間が、
少しずつ特別になっているのか。
夜明けの海は静かだった。
まるで、
まだ誰も知らない秘密を隠すみたいに。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




