第6話「海が好きだった」
夜明け前の海は静かだった。
波は穏やかで、
風も弱い。
碧はレヴィの後ろをゆっくり泳いでいた。
もう競うようには泳がない。
レヴィといる時だけは。
速さも。
タイムも。
順位も。
全部忘れていられた。
レヴィは少し前を泳いでいる。
海流に乗るように。
魚みたいに。
いや。
魚よりも自然に。
碧は思わず笑った。
「やっぱ変だよな」
レヴィが振り返る。
「何がだ」
「お前」
即答だった。
レヴィは少しだけ眉を寄せる。
碧はまた笑う。
最近。
こうして笑うことが増えた気がする。
理由は分からない。
分からないままでも、
今はそれでよかった。
ふたりはしばらく並んで泳ぐ。
海は広い。
どこまでも。
自由だった。
その時。
不意に。
昔のことを思い出した。
幼い頃。
まだ何も背負っていなかった頃。
夏の海。
波打ち際。
「兄ちゃん!」
楽しそうな声。
振り返ると、
小さな凪がいた。
まだ泳ぐのも下手で。
それなのに、
必死に碧の後ろを追いかけてくる。
「待って!」
「遅い」
「待ってってば!」
笑いながら逃げる。
凪が怒る。
また笑う。
ただそれだけだった。
勝ち負けなんてない。
期待もない。
タイムもない。
ただ海が好きだった。
泳ぐのが好きだった。
凪と遊ぶのが好きだった。
あの頃。
海は自由だった。
胸の奥が少しだけ痛くなる。
懐かしさだった。
失ったと思っていた時間。
けれど。
本当は消えていなかったのかもしれない。
碧はゆっくり海面へ浮かぶ。
空が少しずつ明るくなっている。
朝焼けが広がる。
隣にはレヴィがいた。
何も言わない。
ただ静かに待っている。
碧は海を見つめた。
揺れる波。
潮の匂い。
風の音。
そして。
ぽつりと呟く。
「俺」
声が少し掠れた。
「……海が好きだった」
静かな海だった。
波の音だけが聞こえる。
碧は小さく笑う。
「忘れてた」
誰かに言うわけでもなく。
自分へ言い聞かせるみたいに。
「ずっと」
レヴィは何も言わなかった。
ただ。
静かに碧を見る。
その横顔は穏やかだった。
苦しそうな顔じゃない。
逃げるような顔でもない。
ただ海を見ている。
昔のことを思い出しながら。
海を好きだと言った人間。
その姿を見た瞬間。
レヴィの胸の奥で、
何かが揺れた。
遠い昔。
蒼士郎も同じような顔で海を見ていた。
けれど違う。
もう分かっている。
碧は蒼士郎じゃない。
違う人間だ。
違うのに。
目を離せない。
碧は朝焼けの海を見つめたまま笑う。
その笑顔は、
どこまでも自由だった。
そして。
その瞬間だった。
レヴィの唇がわずかに開く。
無意識だった。
本当に。
無意識に。
昔みたいに。
歌おうとした。
海へ。
朝焼けへ。
目の前の笑顔へ。
届けるように。
けれど。
音は出なかった。
微かな息だけが零れる。
歌にならない。
レヴィはゆっくり目を閉じた。
もう歌えない。
昔から知っている。
知っているはずなのに。
今だけは。
少しだけ歌いたいと思った。
碧は気付いていない。
朝焼けの海を見ながら、
静かに笑っている。
海が揺れる。
光が広がる。
その景色を見ながら、
レヴィは小さく息を吐いた。
胸の奥が静かに波打つ。
まるで。
長い眠りから何かが目を覚まそうとしているみたいだった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
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