第5話「会いたかった」
その日は、
泳ぐつもりではなかった。
朝練は終わっている。
大学もある。
本来なら海へ来る理由なんてない。
それなのに、碧は気付けばいつもの浜辺へ立っていた。
波の音が聞こえる。
潮風が吹く。
空はまだ薄暗い。
碧は小さく息を吐いた。
「何やってんだろ」
自分でも分からない。
泳ぎたいわけじゃない。
身体を動かしたいわけでもない。
ただ海へ来た。
それだけだった。
*
しばらく海を眺めていると、ざぶり、と聞き慣れた音がした。
碧の視線が自然と動く。
そして海面から現れる。
白い肌。
長い淡金の髪。
青金の瞳。
レヴィだった。
その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。
自分でも気付かないくらい自然に。
「……来たのか」
レヴィが言う。
いつもの無愛想な声。
けれど、どこか当たり前みたいな言い方だった。
碧は苦笑する。
「悪いかよ」
「別に」
相変わらずだ。
レヴィは少し碧を見ていたが、ふと首を傾げた。
「今日は泳がないのか」
碧は一瞬言葉に詰まる。
確かに、まだ海へ入っていない。
いつもなら来てすぐ泳ぐ。
なのに今日は、ただ立っていた。
レヴィは不思議そうに見ている。
碧は視線を逸らした。
答えに困る。
泳がない理由なんて、自分が一番分かっている。
言えるわけがない。
言いたくない。
なのに沈黙だけが長くなる。
レヴィは急かさない。
ただ静かに待っていた。
碧は観念したように頭を掻く。
「……別に」
声が小さい。
「泳ぎたくなかっただけ」
嘘だ。
自分でも分かる。
レヴィも分かっている気がした。
青金の瞳が、じっとこちらを見ている。
碧は居心地が悪くなる。
だから。
誤魔化そうとして。
余計なことを言ってしまった。
「……お前に会いに来た」
言った瞬間。
時間が止まった。
波の音だけが聞こえる。
碧の顔が一気に熱くなる。
しまった。
本当にしまった。
なんで言った。
なんで今言った。
碧は思わず顔を覆う。
「違う」
慌てて言う。
「いや、違わないけど」
さらに墓穴を掘る。
「そういう意味じゃなくて」
もう何を言っているのか分からない。
最悪だった。
レヴィは黙っている。
その沈黙が余計につらい。
碧は海へ飛び込みたくなった。
むしろ沈みたかった。
けれど。
しばらくして。
「そうか」
レヴィが静かに言った。
たったそれだけ。
驚きも。
茶化しもない。
ただ、本当に少しだけ瞳が柔らかくなった気がした。
碧は思わず顔を上げる。
レヴィは海面へ視線を落としていた。
長い髪が揺れる。
その横顔は相変わらず綺麗だった。
人間じゃないくらい。
ずるいと思う。
「……何だよ」
碧がぼそりと呟く。
レヴィは首を傾げた。
「何がだ」
「何でもない」
碧は視線を逸らす。
心臓がうるさい。
理由は分かっている。
認めたくないだけで。
海が静かに揺れる。
レヴィは何も言わない。
それなのに、その沈黙は不思議と心地良かった。
しばらくして。
レヴィがぽつりと言う。
「なら今日は泳がなくてもいい」
碧が目を瞬かせる。
「は?」
「会いに来たのなら」
当たり前みたいに言う。
碧は言葉を失った。
そして。
少しだけ笑った。
「お前さ」
「なんだ」
「たまに変なこと言うよな」
レヴィは意味が分からないという顔をする。
碧はもう一度笑った。
海が揺れる。
朝日が少しずつ昇っていく。
その光の中で、碧はふと思った。
海へ来る理由が変わったのは、いつからだっただろう。
波でも。
泳ぎでもない。
今はただ。
この人魚に会いたい。
それだけで海へ来ている気がした。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




