第2話「自由に泳ぐ」
「今日は泳がないのか」
レヴィが言った。
夜明け前の海。
碧は波打ち際に座ったまま、
ぼんやり海を眺めていた。
ここ数日。
海へ来る回数が増えている。
いや。
正確には。
レヴィに会う回数が増えている。
碧はその事実を認めたくなくて、
小さく眉を寄せた。
「泳ぐよ」
立ち上がる。
そして海へ入る。
冷たい水が身体を包む。
慣れた感覚。
碧は息を整えると、
いつものように泳ぎ始めた。
腕を伸ばす。
水を掻く。
蹴る。
進む。
もっと速く。
もっと前へ。
身体が勝手に動く。
何年も繰り返した動きだった。
考える前に身体が覚えている。
海を切り裂くように泳ぐ碧を、
レヴィは少し離れた場所から見ていた。
しばらくして。
ぽつりと言う。
「なんで急ぐ」
碧は顔を上げた。
「は?」
レヴィは首を傾げる。
本当に不思議そうだった。
「泳いでいるだけだろう」
「泳いでるからだよ」
碧は当たり前のように答える。
「速く泳ぐだろ普通」
レヴィはしばらく黙った。
そして。
「普通か?」
真顔だった。
碧は思わず吹き出しそうになる。
「お前な」
「海に何か追われているのかと思った」
「追われてねぇよ」
「なら急ぐ必要はない」
レヴィは本気で言っていた。
碧は言葉を失う。
急ぐ必要。
そんなこと考えたこともなかった。
泳ぐなら速く。
速く泳げるならもっと速く。
昔からそうだった。
競泳選手になってからはなおさら。
海でも。
プールでも。
ただ泳ぐことなんて、
いつの間にかなくなっていた。
レヴィはゆっくり碧の横へ来る。
「こっちだ」
「は?」
「いいから来い」
相変わらず説明が足りない。
碧は呆れながらも後を追う。
しばらく泳ぐ。
けれど。
レヴィは速くない。
いや。
速く泳げるはずなのに、
わざと合わせている。
潮の流れに乗るように。
海と遊ぶように。
ゆっくり。
自由に。
碧は少しだけ速度を落とした。
すると。
聞こえる。
波の音。
遠くの魚の群れ。
水が揺れる感覚。
今まで気にも留めなかったもの。
レヴィは振り返らない。
ただ泳いでいる。
碧は少しだけ驚いた。
綺麗だった。
競泳のフォームじゃない。
効率も考えていない。
なのに。
海の中で一番自然だった。
まるで。
海そのものが泳いでいるみたいに。
「……変な泳ぎ方」
思わず呟く。
レヴィが振り返る。
「そうか」
「人間の泳ぎと全然違う」
「人間じゃないからな」
確かに。
それはそうだ。
碧は少し笑った。
レヴィが一瞬だけ目を細める。
それからまた前を向く。
海が静かに揺れている。
碧はゆっくり息を吐いた。
そして。
もう一度だけ速度を落とす。
急がない。
競わない。
誰も見ていない。
誰も評価しない。
ただ。
泳ぐ。
その感覚が。
ひどく懐かしかった。
子どもの頃。
凪と一緒に海を泳いだ。
魚を追いかけて。
笑いながら。
勝ち負けなんてなくて。
ただ楽しかった。
――兄ちゃん、魚みたい!
幼い凪の声が、
ふと蘇る。
碧は目を閉じた。
忘れていた。
ずっと。
こんな風に泳ぐことを。
レヴィは少し前を泳いでいる。
何も言わない。
けれど。
その背中を見ていると、
不思議と息がしやすかった。
海は広い。
自由だった。
そして。
碧は少しだけ思う。
明日も。
また来よう、と。
その理由を、
まだ名前にすることはできなかった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
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▼ もうひとつの人魚BL
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