第1話「また海へ」
眠れない夜だった。
正確には。
眠れないわけではない。
ただ、
最近よく目が覚める。
時計を見る。
午前三時三十分。
いつもの起床時間まで、
まだ三十分ある。
本来なら、
もう少し眠れるはずだった。
朝練は四時起き。
身体は休ませた方がいい。
そんなことは、
碧自身が一番よく分かっている。
けれど。
最近は駄目だった。
目が覚める。
理由は分からない。
いや。
分かりたくないだけかもしれない。
碧は小さく息を吐いた。
暗い部屋。
静かな天井。
目を閉じても、
思い出すのは海ばかりだった。
波の音。
青金の瞳。
低い声。
――レヴィ。
碧は布団から起き上がる。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟いた。
どうせ眠れない。
少し泳げば頭も冷える。
そう自分へ言い聞かせる。
海へ行く理由なんて、
それで十分だった。
少なくとも、
そういうことにしておきたかった。
*
夜明け前の海は静かだった。
空はまだ暗い。
水平線の向こうが、
わずかに白み始めている。
碧はゆっくり海へ入る。
冷たい。
けれど嫌じゃない。
水が身体を包む。
昔から知っている感覚。
碧は静かに泳ぎ始めた。
競技場じゃない。
コースもない。
タイムもない。
誰も見ていない。
ただ海を泳ぐ。
しばらくして。
ふと顔を上げた。
無意識だった。
気付けば。
海面近くを見ている。
探している。
自分でも分かっていた。
碧は苦笑する。
「何やってんだ俺」
人魚なんて。
毎回いるわけがない。
そう思った瞬間だった。
ざぶり。
少し離れた場所で、
水面が揺れる。
碧の呼吸が止まる。
そして。
ゆっくり現れる。
白い肌。
長い淡金の髪。
青金の瞳。
海の中から、
当たり前みたいに現れた。
レヴィだった。
碧は一瞬言葉を失う。
いた。
本当に。
いる。
レヴィは特に驚く様子もなく、
静かに碧を見ていた。
まるで。
碧が来ることを知っていたみたいに。
「……また来たのか」
低い声。
いつもの無愛想な言い方。
なのに。
碧の胸の奥が少しだけ軽くなる。
理由は分からない。
ただ。
少しだけ嬉しかった。
「悪いかよ」
碧が言うと。
レヴィは小さく目を細めた。
「別に」
興味なさそうな返事。
けれど。
帰れとも言わない。
碧は少し笑った。
波が静かに揺れる。
夜明け前の海。
人魚と人間。
誰も知らない場所。
不思議な時間だった。
「お前さ」
碧がぽつりと言う。
「毎日ここにいるのか?」
レヴィは少し考える。
「毎日ではない」
「じゃあ今日はたまたま?」
「違う」
即答だった。
碧が首を傾げる。
レヴィは静かに海面を見る。
そして。
「今日は少し早いな」
碧が目を瞬かせる。
「……は?」
「いつもはもう少し後だろう」
心臓がどくりと鳴った。
碧はレヴィを見る。
レヴィは平然としていた。
まるで当たり前のことを言ったみたいに。
「お前……」
碧は言葉を失う。
つまり。
知っているのだ。
自分が海へ来る時間を。
いつ来て。
どれくらい泳いで。
いつ帰るのか。
全部。
レヴィは碧の反応を気にする様子もなく、
静かに言う。
「最近は特に早い」
図星だった。
碧は思わず視線を逸らす。
最近よく目が覚める。
三時半。
四時。
理由なんて考えたくなかった。
レヴィはそんな碧を見ながら、
小さく息を吐いた。
相変わらず苦しそうな顔をしている。
けれど。
初めて会った頃より少しだけ違う。
ほんの少しだけ。
表情が柔らかい。
レヴィは静かに視線を逸らした。
海が揺れる。
夜明けの光が、
ゆっくり海面を染め始めていた。
碧はまだ知らない。
自分が海へ来る理由が、
少しずつ変わり始めていることを。
そしてレヴィもまだ知らない。
その変化が、
自分のせいだということを。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
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