第11話「お前は違う」
この男は、
本当に存在している。
人魚は碧の頬へ触れたまま、
わずかに眉を寄せる。
「……またそんな顔をしている」
低い声。
静かな海の底みたいな声だった。
碧は息を呑む。
また。
やっぱり、
あの時の声だ。
「お前……」
声が掠れる。
人魚は何も答えない。
ただ碧を見ている。
まるで、
碧の奥にある何かを覗き込むみたいに。
碧は無意識に、
その手首を掴んだ。
細い。
けれど驚くほど強い。
冷たい鱗が、
指先へ触れる。
人魚の瞳が、
わずかに揺れた。
次の瞬間。
海の奥から、
低く不気味な音が響く。
碧の背筋が凍る。
暗い深海の底。
その奥で、
巨大な影がゆっくり動いた。
碧の呼吸が止まる。
あれは駄目だ。
本能的に分かった。
逃げないと。
なのに。
身体が動かない。
恐怖で、
息すらうまくできない。
その瞬間。
レヴィの瞳が鋭く細まった。
深海の生物。
縄張りへ近付きすぎた。
レヴィは反射的に碧を抱き寄せる。
碧が目を見開く。
次の瞬間。
尾びれが大きく揺れた。
海流が変わる。
圧倒的な速度で、
ふたりの身体が海を裂いた。
速い。
人間ではあり得ない速度。
碧はただ、
レヴィへしがみつくことしかできない。
冷たい鱗。
強い腕。
人魚の体温は低いのに、
なぜか怖くなかった。
後ろで、
深海の影が低く唸る。
レヴィは振り返らない。
ただ碧を抱えたまま、
一気に浅瀬へ向かう。
その横顔を見た瞬間。
レヴィの胸の奥で、
遠い記憶が揺れた。
――違う。
蒼士郎は、
こんな風に震えなかった。
海を怖がらなかった。
もっと自由に泳いでいた。
もっと、
海を愛していた。
けれど。
腕の中の人間は違う。
呼吸が乱れている。
苦しそうだ。
放っておけば、
沈んでしまいそうなくらい脆い。
……なのに。
どうしても離せなかった。
やがて浅瀬へ辿り着く。
レヴィは静かに碧を浜辺へ横たえた。
碧は既に意識を失っている。
濡れた黒髪。
乱れた呼吸。
月明かりに照らされた横顔。
レヴィはしばらく、
その顔を見つめていた。
そして。
碧の手へ、
自分の鱗が握られていることに気付く。
青金の欠片。
月光を反射して、
淡く光っていた。
レヴィの瞳がわずかに揺れる。
まるで、
海が自分を繋ぎ止めようとしているみたいだった。
けれど次の瞬間。
レヴィは静かに海へ戻る。
波が揺れる。
そして、
その姿は夜の海へ溶けるように消えた。
*
数日後。
碧はまた海へ来ていた。
怖くないわけじゃない。
あの日のことを思い出すだけで、
今でも背筋が冷える。
けれど。
どうしても、
もう一度会いたかった。
「……いるんだろ」
静かな海へ向かって呟く。
波の音だけが返る。
帰ろうかと思ったその時。
水面が小さく揺れた。
碧の呼吸が止まる。
暗い海の中から、
ゆっくり影が浮かび上がる。
白い肌。
長い淡金の髪。
青金の瞳。
人魚だった。
碧は無意識に、
手の中の鱗を強く握る。
レヴィは浅瀬から静かに碧を見上げていた。
何も言わない。
ただ、
じっと見ている。
その視線に、
碧は妙に息が詰まる。
怖いはずなのに、
逃げたいとは思わなかった。
碧は少しだけ視線を逸らしながら、
小さく言う。
「……あの時」
声が掠れる。
「助けたの、
お前だろ」
レヴィは否定しない。
静かな沈黙。
波の音だけが揺れる。
碧は唇を噛んでから、
少し困ったように笑った。
「ありがと」
その瞬間。
レヴィの瞳がわずかに揺れた。
遠い夏が、
胸の奥で微かに軋む。
――レヴィ。
昔。
同じように、
海で名前を呼ぶ声があった。
海を愛していた人間。
自由に笑っていた男。
深海蒼士郎。
けれど。
目の前の人間は違う。
碧はどこか苦しそうだ。
呼吸も。
表情も。
海へ来ているのに、
まるで溺れているみたいだった。
蒼士郎はそんな顔をしなかった。
もっと自由だった。
もっと海を愛していた。
碧は少し黙ったあと、
レヴィを見た。
「……お前、
名前あるの」
静かな海だった。
人魚は簡単に名を与えない。
それなのに。
昔も。
今も。
どうしてか、
この血を引く人間には隠せなかった。
レヴィは小さく目を伏せる。
そして静かに答えた。
「……レヴィ」
碧がその名前を小さく繰り返す。
「レヴィ」
その響きが、
妙に胸へ残る。
そして。
レヴィは静かに碧を見る。
「……お前は」
碧が少し目を瞬かせる。
「俺?」
レヴィは何も言わない。
ただ、
続きを待つみたいに見つめている。
碧は少しだけ迷ったあと、
静かな海へ名前を落とした。
「深海碧」
その瞬間。
レヴィの瞳がわずかに揺れる。
深海。
その姓が、
遠い記憶を呼び起こす。
夏の海。
笑い声。
黒髪の人間。
――深海蒼士郎。
レヴィは小さく目を伏せた。
そして。
「……アオ」
低い声が、
静かな波間へ溶ける。
碧は少し驚いたように、
その声を見つめた。
自分の名前を呼ばれただけなのに。
なぜか、
胸の奥が妙にざわつく。
レヴィは静かに碧を見つめる。
黒髪。
揺れる睫毛。
海へ逃げ込むような瞳。
蒼士郎とは違う。
あいつはもっと、
自由に海を泳いでいた。
海を愛していた。
けれど。
目の前の人間は違う。
海へ逃げるように泳ぐ。
壊れそうな顔をしている。
放っておけば、
沈んでしまいそうなくらい脆い。
……なのに。
どうしても目を離せない。
レヴィはゆっくり目を閉じる。
深海みたいに静かな声が、
胸の奥へ沈んでいった。
――お前は違う。
なのに。
どうしてお前ばかり見てしまう。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




