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深海に溺れる  作者: 深幸-みさき-
第3章:「深海」
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第11話「お前は違う」


この男は、

本当に存在している。


人魚は碧の頬へ触れたまま、

わずかに眉を寄せる。


「……またそんな顔をしている」


低い声。


静かな海の底みたいな声だった。


碧は息を呑む。


また。


やっぱり、

あの時の声だ。


「お前……」


声が掠れる。


人魚は何も答えない。


ただ碧を見ている。


まるで、

碧の奥にある何かを覗き込むみたいに。


碧は無意識に、

その手首を掴んだ。


細い。


けれど驚くほど強い。


冷たい鱗が、

指先へ触れる。


人魚の瞳が、

わずかに揺れた。


次の瞬間。


海の奥から、

低く不気味な音が響く。


碧の背筋が凍る。


暗い深海の底。


その奥で、

巨大な影がゆっくり動いた。


碧の呼吸が止まる。


あれは駄目だ。


本能的に分かった。


逃げないと。


なのに。


身体が動かない。


恐怖で、

息すらうまくできない。


その瞬間。


レヴィの瞳が鋭く細まった。


深海の生物。


縄張りへ近付きすぎた。


レヴィは反射的に碧を抱き寄せる。


碧が目を見開く。


次の瞬間。


尾びれが大きく揺れた。


海流が変わる。


圧倒的な速度で、

ふたりの身体が海を裂いた。


速い。


人間ではあり得ない速度。


碧はただ、

レヴィへしがみつくことしかできない。


冷たい鱗。


強い腕。


人魚の体温は低いのに、

なぜか怖くなかった。


後ろで、

深海の影が低く唸る。


レヴィは振り返らない。


ただ碧を抱えたまま、

一気に浅瀬へ向かう。


その横顔を見た瞬間。


レヴィの胸の奥で、

遠い記憶が揺れた。


――違う。


蒼士郎は、

こんな風に震えなかった。


海を怖がらなかった。


もっと自由に泳いでいた。


もっと、

海を愛していた。


けれど。


腕の中の人間は違う。


呼吸が乱れている。


苦しそうだ。


放っておけば、

沈んでしまいそうなくらい脆い。


……なのに。


どうしても離せなかった。


やがて浅瀬へ辿り着く。


レヴィは静かに碧を浜辺へ横たえた。


碧は既に意識を失っている。


濡れた黒髪。


乱れた呼吸。


月明かりに照らされた横顔。


レヴィはしばらく、

その顔を見つめていた。


そして。


碧の手へ、

自分の鱗が握られていることに気付く。


青金の欠片。


月光を反射して、

淡く光っていた。


レヴィの瞳がわずかに揺れる。


まるで、

海が自分を繋ぎ止めようとしているみたいだった。


けれど次の瞬間。


レヴィは静かに海へ戻る。


波が揺れる。


そして、

その姿は夜の海へ溶けるように消えた。



数日後。


碧はまた海へ来ていた。


怖くないわけじゃない。


あの日のことを思い出すだけで、

今でも背筋が冷える。


けれど。


どうしても、

もう一度会いたかった。


「……いるんだろ」


静かな海へ向かって呟く。


波の音だけが返る。


帰ろうかと思ったその時。


水面が小さく揺れた。


碧の呼吸が止まる。


暗い海の中から、

ゆっくり影が浮かび上がる。


白い肌。


長い淡金の髪。


青金の瞳。


人魚だった。


碧は無意識に、

手の中の鱗を強く握る。


レヴィは浅瀬から静かに碧を見上げていた。


何も言わない。


ただ、

じっと見ている。


その視線に、

碧は妙に息が詰まる。


怖いはずなのに、

逃げたいとは思わなかった。


碧は少しだけ視線を逸らしながら、

小さく言う。


「……あの時」


声が掠れる。


「助けたの、

 お前だろ」


レヴィは否定しない。


静かな沈黙。


波の音だけが揺れる。


碧は唇を噛んでから、

少し困ったように笑った。


「ありがと」


その瞬間。


レヴィの瞳がわずかに揺れた。


遠い夏が、

胸の奥で微かに軋む。


――レヴィ。


昔。


同じように、

海で名前を呼ぶ声があった。


海を愛していた人間。


自由に笑っていた男。


深海蒼士郎。


けれど。


目の前の人間は違う。


碧はどこか苦しそうだ。


呼吸も。


表情も。


海へ来ているのに、

まるで溺れているみたいだった。


蒼士郎はそんな顔をしなかった。


もっと自由だった。


もっと海を愛していた。


碧は少し黙ったあと、

レヴィを見た。


「……お前、

 名前あるの」


静かな海だった。


人魚は簡単に名を与えない。


それなのに。


昔も。


今も。


どうしてか、

この血を引く人間には隠せなかった。


レヴィは小さく目を伏せる。


そして静かに答えた。


「……レヴィ」


碧がその名前を小さく繰り返す。


「レヴィ」


その響きが、

妙に胸へ残る。


そして。


レヴィは静かに碧を見る。


「……お前は」


碧が少し目を瞬かせる。


「俺?」


レヴィは何も言わない。


ただ、

続きを待つみたいに見つめている。


碧は少しだけ迷ったあと、

静かな海へ名前を落とした。


「深海碧」


その瞬間。


レヴィの瞳がわずかに揺れる。


深海。


その姓が、

遠い記憶を呼び起こす。


夏の海。


笑い声。


黒髪の人間。


――深海蒼士郎。


レヴィは小さく目を伏せた。


そして。


「……アオ」


低い声が、

静かな波間へ溶ける。


碧は少し驚いたように、

その声を見つめた。


自分の名前を呼ばれただけなのに。


なぜか、

胸の奥が妙にざわつく。


レヴィは静かに碧を見つめる。


黒髪。


揺れる睫毛。


海へ逃げ込むような瞳。


蒼士郎とは違う。


あいつはもっと、

自由に海を泳いでいた。


海を愛していた。


けれど。


目の前の人間は違う。


海へ逃げるように泳ぐ。


壊れそうな顔をしている。


放っておけば、

沈んでしまいそうなくらい脆い。


……なのに。


どうしても目を離せない。


レヴィはゆっくり目を閉じる。


深海みたいに静かな声が、

胸の奥へ沈んでいった。


――お前は違う。


なのに。


どうしてお前ばかり見てしまう。

ご覧いただきありがとうございます。

『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。


ふたつの海の物語──。

真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。

月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。


▼ もうひとつの人魚BL

『夜凪に溶ける』

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