第9話「来なくなった海」
ー回想
最初は、
少し遅いだけだと思っていた。
蒼士郎は人間だ。
仕事もある。
家族もいる。
海へ来られない日くらいある。
だからレヴィは、
いつもの岩場近くで静かに待っていた。
夜の海。
月明かり。
波の音。
けれど。
蒼士郎は来ない。
次の日も。
その次の日も。
海は静かなままだった。
*
時間だけが過ぎていく。
人魚にとって、
時間は長い。
だから待ててしまう。
待ちながら、
少しずつ理解してしまう。
人間は、
永遠じゃない。
蒼士郎は以前より、
咳をするようになっていた。
呼吸も浅かった。
泳ぐ時間も短くなった。
分かっていたはずなのに。
レヴィはどこかで、
蒼士郎だけは違う気がしていた。
そんなはずないのに。
深海の底。
静かな海流の中で、
レヴィはゆっくり目を閉じる。
その時だった。
不意に。
海が静まった。
波ではない。
海流でもない。
もっと深い感覚。
海そのものが、
ひとつ命を還したような静けさ。
人魚だけが分かる、
終わりの気配。
レヴィの瞳がわずかに揺れる。
理解したくなかった。
けれど。
海は残酷なほど静かだった。
――ああ。
もう来ない。
その瞬間。
レヴィは反射的に歌おうとした。
海へ。
届くように。
蒼士郎を探すみたいに。
けれど。
声が出なかった。
喉が震える。
息だけが零れる。
歌にならない。
何度も。
何度も。
それでも。
海へ溶けるはずの歌は、
もうどこにもなかった。
完全に失ったのだと、
その時初めて理解した。
蒼士郎と共に。
レヴィの歌も、
海へ沈んだ。
深海は静かだった。
冷たい。
暗い。
広すぎる。
レヴィはひとり、
海の底へ沈んでいく。
もう、
“また来る”という声は聞こえない。
夏の海で笑う人間は、
二度と戻らない。
どれだけ待っても。
人間は、
海へ残らない。
「……レヴィ」
低い声が、
深海へ響く。
レヴィはゆっくり目を開けた。
海の王だった。
長い黒髪が、
静かな海流に揺れている。
王は何も聞かない。
ただ静かに、
息子を見る。
レヴィも何も言わなかった。
けれど。
歌えない。
それだけで十分だった。
王はゆっくり目を伏せる。
長い沈黙。
やがて。
「……死んだか」
静かな声。
責める響きはなかった。
ただ、
深海みたいに重い。
レヴィは否定しない。
できなかった。
王はそんな息子を見つめながら、
小さく息を吐く。
「だから言った」
低い声が、
海へ沈む。
レヴィは静かに目を閉じた。
胸の奥だけが痛い。
歌もない。
声もない。
残ったのは、
終わらない喪失だけだった。
遠くの回廊で、
幼いノアの笑い声が聞こえる。
まだ何も知らない声。
無邪気な、
幼い人魚。
「お兄様って、
全然歌わないよねー!」
楽しそうな声が、
遠くから響く。
レヴィは答えない。
昔は違った。
昔は、
歌えていた。
けれどもう。
海へ届く歌は、
どこにも残っていなかった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




