第8話「老い」
ー回想
最初に気付いたのは、
髪だった。
夏の海。
いつもの岩場。
海へ現れた蒼士郎の黒髪に、
白いものが混じっていた。
レヴィは静かに目を細める。
蒼士郎は気付いていない。
いつも通り笑って、
海へ飛び込んでくる。
「うわ、冷てぇ!」
子どもみたいに笑う声。
その姿は昔と変わらないように見えた。
けれど。
人間は変わる。
少しずつ。
確実に。
レヴィは海面から蒼士郎を見る。
泳ぎも、
昔より遅くなった。
呼吸も浅い。
以前みたいに、
長く潜れない。
それでも蒼士郎は海が好きだった。
「レヴィ」
波に揺られながら、
蒼士郎が笑う。
「最近、
お前前より静かじゃない?」
レヴィは答えない。
歌えない。
あの日から。
求婚を断られてから、
胸の奥の歌が消えた。
昔は違った。
蒼士郎と出会った頃は、
海へ歌を落とすこともあった。
すると蒼士郎は、
嬉しそうに笑った。
“綺麗だな”
そう言って。
人間なのに、
人魚の歌を恐れなかった。
だからレヴィも、
歌いたくなった。
けれど今はもう、
うまく歌えない。
声を出そうとすると、
胸の奥が軋む。
蒼士郎へ届かなかった想いが、
そのまま喉へ引っ掛かっているみたいだった。
蒼士郎はそんなレヴィを見ながら、
少し困ったように笑う。
「最近、
歌ってくれねぇな」
レヴィの瞳がわずかに揺れる。
蒼士郎は気付かない。
自分が断ったことで、
レヴィの歌が壊れたことを。
たぶん、
一生知らない。
「……歌わなくてもいい」
低く返す。
蒼士郎は少し寂しそうに笑った。
「俺、
お前の歌好きだったんだけどな」
その言葉が痛い。
レヴィは静かに目を逸らす。
海風が吹く。
蒼士郎は岩場へ腰を下ろしながら、
小さく咳をした。
レヴィの表情が止まる。
蒼士郎はすぐ誤魔化すように笑った。
「歳かなぁ」
軽い口調。
けれど。
人魚にとって、
“老い”は異質だった。
レヴィは何も変わらない。
肌も。
声も。
身体も。
ずっと同じまま。
なのに。
蒼士郎だけが変わっていく。
少しずつ。
ゆっくり。
確実に。
それがどうしようもなく恐ろしかった。
蒼士郎は空を見上げながら笑う。
「息子、
泳ぎ速くなってきたんだよ」
「……そうか」
「お前みたいに魚みてぇな泳ぎ方してんの」
嬉しそうだった。
家族の話をする時の蒼士郎は、
本当に幸せそうで。
レヴィはその度、
何も言えなくなる。
蒼士郎は人間として生きている。
家族がいて。
歳を取って。
老いていく。
それが蒼士郎の幸せなのだ。
分かっている。
分かっているのに。
海へ連れていきたかった。
ずっと一緒にいたかった。
老いてほしくなかった。
死んでほしくなかった。
そんな願いは、
人魚の傲慢なのだと。
レヴィは知っている。
蒼士郎は立ち上がる。
「今日はそろそろ帰る」
「……もうか」
「怒られるしな」
困ったように笑う。
その笑顔の端に、
少しだけ年齢が滲んでいた。
レヴィは静かに蒼士郎を見つめる。
昔と変わらない笑顔。
でも。
確実に、
終わりへ向かっている。
蒼士郎は海へ背を向けながら、
ふと振り返った。
「また来る」
その言葉に、
レヴィは何も返せなかった。
人間の“また”は、
永遠じゃない。
それを。
レヴィはもう、
知り始めていた。
ご覧いただきありがとうございます。
『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




