第7話「海の魔女」
深海の底には、
決して近付いてはいけない場所がある。
幼い頃から、
レヴィはそう教えられてきた。
遺跡よりさらに深く。
光も、
歌も、
海流すら届きにくい場所。
そこには、
“海の魔女”がいる。
人魚たちは皆、
その存在を知っている。
けれど、
誰も軽々しく名を呼ばない。
願いを叶える代わりに、
必ず何かを奪う存在。
それが海の魔女だった。
*
「本当にいるの?」
ノアが興味津々な目で言う。
崩れた神殿の回廊。
青白い魚群が、
静かに頭上を流れていく。
レヴィはちらりと妹を見る。
「……いる」
短い返事。
ノアは少し目を輝かせた。
「会ったことある?」
「ない」
レヴィは即答した。
会いたいとも思わない。
関わるべき存在ではない。
ノアは尾びれを揺らしながら、
楽しそうに笑う。
「でも噂は聞いたことあるよ」
「願いを叶える代わりに、
何か持っていくんでしょ?」
深海の中で、
小さく波が揺れる。
レヴィは静かに目を伏せた。
「代償なしの願いなどない」
低い声だった。
ノアは不思議そうに首を傾げる。
「そんなに怖い顔しなくてもいいじゃん」
「……お前は、
興味を持つな」
その声音は、
珍しく硬かった。
ノアが少しだけ目を丸くする。
レヴィは視線を逸らした。
海の魔女は、
人魚を変える。
身体。
声。
寿命。
魂。
海の理から外れた願いほど、
代償は重い。
昔、
海の底で聞いたことがある。
人間になりたいと願った人魚。
死んだ伴侶を忘れたいと願った人魚。
声を失った人魚。
誰も幸せそうではなかった。
だから。
近付くべきじゃない。
ノアは珊瑚へ寄り掛かりながら、
ぼんやり海面の方を見上げる。
「でもさ」
「……なんだ」
「もし、
どうしても叶えたい願いがあったら?」
その言葉に、
レヴィの胸がわずかに軋んだ。
どうしても叶えたい願い。
昔、
確かにあった。
“海へ来い”
伴侶になれ。
共に生きろ。
蒼士郎へ向けた願い。
けれど。
叶わなかった。
レヴィは静かに目を閉じる。
あの日から、
歌がうまく歌えなくなった。
人魚にとって歌は、
魂そのものだ。
感情。
愛。
海との繋がり。
本来なら、
深海側の王族であるレヴィは、
誰より深く海と共鳴できた。
けれど今は違う。
歌おうとすると、
胸の奥が軋む。
声が海へ溶けない。
まるで、
海に拒まれているみたいだった。
ノアはそんな兄を見ながら、
少し困ったように笑う。
「お兄様、
本当に歌わないよね」
レヴィは答えない。
昔は違った。
幼い頃は、
深海へ響くほど歌っていた。
けれど。
もう長い間、
まともに歌えていない。
ノアは気付いていない。
その理由も。
兄が何を失ったのかも。
静かな海流が、
ふたりの間を通り過ぎる。
やがてノアは、
ぽつりと呟いた。
「願いって、
そんなに駄目なものかな」
レヴィの瞳がわずかに揺れる。
願い。
それは時々、
海の掟すら壊してしまう。
だから恐ろしい。
レヴィはゆっくり目を伏せる。
脳裏に浮かぶのは、
黒髪の人間だった。
夏の海で笑う、
深海蒼士郎。
そして今。
苦しそうに海を泳ぐ、
深海碧。
レヴィは小さく息を吐く。
深海は静かだった。
けれど胸の奥だけが、
ひどく騒がしかった。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




