第2話「歌」
深海の夜は静かだ。
海面近くの世界とは違う。
波の音も、
風も、
人間の声も届かない。
ただ、
ゆるやかな海流だけが、
静かに世界を揺らしている。
レヴィは崩れた神殿の回廊を泳ぎながら、
小さく目を閉じた。
頭の奥に残る。
黒髪。
苦しそうな呼吸。
海へ逃げ込むような泳ぎ方。
――深海碧。
その名前を思い出した瞬間。
遠くから、
歌声が聞こえた。
静かな海へ、
透き通る声が広がっていく。
人魚の歌だった。
深海の歌ではない。
もっと軽やかで、
柔らかい旋律。
浅瀬の歌。
レヴィはわずかに眉を寄せる。
聞き慣れた声だった。
崩れた石柱を抜けた先。
青白く光る珊瑚の庭で、
ひとりの人魚が歌っていた。
長い銀髪。
淡く光る青緑の尾びれ。
月光みたいな瞳。
ノアだった。
周囲には小魚たちが集まり、
歌へ惹かれるように揺れている。
ノアは歌い終えると、
気配に気付いたように振り返った。
「あ、お兄様」
楽しそうに笑う。
レヴィはため息混じりに言った。
「また人間の歌か」
ノアは少しだけ目を丸くする。
「分かるの?」
「浅瀬の旋律は耳障りだ」
「ひど」
ノアはくすくす笑った。
レヴィは近くの石柱へ寄り掛かりながら、
静かに妹を見る。
ノアは昔から自由だった。
深海側の王族らしくない。
浅瀬へ興味を持ち、
人間の歌を真似し、
海の外を知りたがる。
危うい。
レヴィは昔から、
そう思っていた。
ノアは尾びれを揺らしながら、
また小さく歌を口ずさむ。
どこか懐かしい旋律だった。
人間の音楽。
浅瀬から流れてきたものを、
いつの間にか覚えてしまったのだろう。
「綺麗なものは好きだよ」
ノアがふわりと笑う。
「歌も、
月も、
人間の音楽も」
その言葉に、
レヴィは静かに目を細めた。
「人間へ興味を持つな」
低い声。
ノアは少し不満そうに唇を尖らせる。
「どうして?」
「脆い」
即答だった。
「すぐ壊れる」
ノアはしばらく黙る。
青白い魚群が、
ふたりの間をゆっくり通り過ぎた。
やがてノアは、
少しだけ困ったように笑う。
「お兄様って、
人間嫌いだよね」
レヴィは答えない。
嫌い。
そうだ。
本来、
近付くべきじゃない。
関われば、
最後には失う。
海に残されるのは、
いつだって人魚の方だ。
だから。
深く関わるべきではない。
頭では分かっている。
それなのに。
レヴィの脳裏へ、
また黒髪の人間が浮かぶ。
苦しそうに泳ぐ姿。
海へ逃げるような呼吸。
そして。
自分の名前を呼んだ声。
「……レヴィ」
ノアが不思議そうに覗き込む。
「お兄様?」
レヴィは小さく目を伏せた。
「……何でもない」
ノアは少し首を傾げる。
けれどそれ以上は聞かなかった。
ただ静かな海の中で、
また小さく歌を口ずさむ。
その旋律は、
どこか遠い浅瀬の匂いがした。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




