第1話「海へ還る」
「……深海碧」
別れ際に聞いた名前を、
レヴィは海の中で小さく繰り返した。
アオ。
不思議な響きだった。
波の下へ沈みながら、
レヴィはゆっくり目を閉じる。
夜の海は静かだ。
人間の声も、
船の音も、
浅瀬の光も届かない。
深く。
もっと深く。
冷たい海水が、
身体へ馴染んでいく。
ここが本来の場所だった。
レヴィの尾びれが揺れるたび、
青金の鱗が暗い海を照らす。
周囲を、
青白く光る魚たちが泳いでいく。
深海へ近付くほど、
海は静かになる。
まるで、
世界そのものが眠っているみたいだった。
やがて。
暗闇の奥に、
巨大な影が浮かび上がる。
白い石柱。
崩れた神殿。
海藻に覆われた階段。
深海の底に沈む、
古代の遺跡。
人魚たちは、
その遺跡を中心に暮らしている。
静かな水流の中を、
幾人もの人魚が通り過ぎた。
銀色の鱗。
深緑の尾びれ。
淡い紫の瞳。
それぞれ異なる色を持ちながらも、
皆どこか人間離れしている。
レヴィの姿を見つけた途端、
彼らは静かに頭を下げた。
深海側の王族。
海の王の血。
その証である青金の鱗は、
この海では特別だった。
けれどレヴィは、
それに慣れきったように視線を向けない。
興味もない。
ただ静かに、
神殿の奥へ進んでいく。
高い天井。
巨大な石像。
遥か昔に崩れた壁。
その最奥。
暗い玉座の間で、
ひとりの男が海を見下ろしていた。
長い黒髪。
深海みたいに暗い瞳。
圧倒的な存在感。
海の王。
レヴィは一瞬だけ目を伏せる。
王は静かに口を開いた。
「遅かったな」
低い声が、
海の底へ響く。
レヴィは短く答えた。
「浅瀬にいた」
王の視線が、
ゆっくりレヴィへ向けられる。
その瞳は、
深海そのものみたいに冷たい。
「最近、
浅瀬へ行く回数が増えている」
責める声ではない。
けれど、
静かな圧があった。
レヴィは答えない。
王もそれ以上は追及しなかった。
ただ静かに、
海の流れを見つめる。
「人間へ近付きすぎるな」
ぽつりと落ちた言葉に、
レヴィの瞳がわずかに揺れた。
ほんの一瞬。
けれど王は見逃さない。
静かな沈黙。
やがてレヴィは、
視線を逸らすようにその場を離れた。
神殿の奥。
誰もいない回廊を泳ぎながら、
レヴィは小さく息を吐く。
碧を思い出す。
白いTシャツ。
濡れた黒髪。
苦しそうな呼吸。
海へ逃げ込むみたいな泳ぎ方。
――そんな顔で泳ぐな。
自然に出た言葉だった。
どうしてあんな言葉を言ったのか、
自分でも分からない。
けれど。
脳裏に浮かぶのは、
別の人間だった。
夏の海。
陽射し。
笑い声。
海を恐れず、
自由に泳ぐ人間。
――兄ちゃん、魚みたい!
遠い昔、
誰かが笑っていた気がする。
違う。
それは今の記憶じゃない。
もっと昔。
もっと遠い、
忘れられない夏。
レヴィはゆっくり目を閉じる。
暗い深海の中で。
深海碧の姿が、
別の人間と重なっていた。
ご覧いただきありがとうございます。
『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




