第6話「名前を呼ぶ」
海へ行くのを、
数日やめていた。
大学と練習の往復。
疲れて帰って、
眠るだけの日々。
けれど。
気付けば、
碧は何度も窓の外を見ていた。
夜の海を。
青金の鱗は、
机の引き出しへ隠してある。
誰にも見せていない。
見せられなかった。
あれを見れば、
全部思い出すからだ。
冷たい指先。
深海みたいな瞳。
そして。
自分を抱えて泳いだ、
あの圧倒的な速さ。
人間じゃない。
本当に、
海の生き物だった。
碧は小さく息を吐く。
怖かった。
あの巨大な影も。
海の底の暗さも。
全部。
なのに。
――会いたい。
その感情だけが、
頭から離れなかった。
助けてもらった礼を言いたい。
そう自分へ言い訳しながら、
碧は夜の海へ向かっていた。
潮風が頬を撫でる。
静かな波音。
久しぶりの海だった。
碧は堤防へ腰を下ろし、
暗い海を見つめる。
いるんだろうか。
そんなことを考えてしまう自分に、
少し笑ってしまう。
「……馬鹿みたいだ」
ぽつりと呟いた瞬間。
「本当にそうだな」
低い声が、
すぐ近くで返ってきた。
碧の肩が跳ねる。
振り返る。
海面。
月明かり。
そして。
青金の瞳。
人魚が静かに海面から顔を出していた。
濡れた金髪が、
夜風に揺れている。
碧は息を呑む。
やっぱりいた。
人魚は碧を見るなり、
わずかに眉を寄せた。
「……今日は沈みそうな顔じゃない」
「失礼だな」
思わず言い返す。
すると人魚は、
少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
碧は海面へ視線を落とした。
「この前は……
助けてくれて、ありがと」
人魚は何も答えない。
ただ静かに、
波へ腕を乗せている。
「……お礼言いに来ただけ?」
「いや」
碧は少し言葉に詰まる。
本当は違う。
会いたかった。
でもそれを言うのは、
妙に恥ずかしかった。
人魚はじっと碧を見ている。
まるで、
心の奥を見透かすみたいに。
居心地が悪くなって、
碧は視線を逸らした。
「お前、
なんで俺のこと見てるんだよ」
すると人魚は、
当然みたいに答えた。
「お前が海へ来るからだ」
あまりにも自然な言い方に、
碧は一瞬黙る。
「……それだけ?」
「それだけだ」
塩対応だ。
碧は思わず苦笑した。
その時。
人魚がふと呟く。
「お前、
いつも夜明け前に来るだろ」
碧の表情が止まる。
「……は?」
「一番最初もそうだった」
静かな声。
まるで、
ずっと前から知っていたみたいな口調。
碧の背筋がぞくりとした。
「お前……
いつから俺を見てた」
人魚は少しだけ沈黙する。
波が揺れる。
そして。
「前からだ」
あっさりと言った。
碧は言葉を失う。
前から。
それって、
どれくらい前だ。
数日?
数週間?
まさか。
人魚はそんな碧を見ながら、
不思議そうに首を傾げた。
「人間はすぐ気付かない」
「気付くわけないだろ……」
海に人魚がいるなんて。
そんなの、
昔話の中だけだと思っていた。
碧は小さく息を吐く。
そして、
ふと思い出したように口を開いた。
「……名前」
「?」
「お前、
名前ないの」
人魚の瞳がわずかに揺れる。
少しだけ間を置いてから、
低い声が落ちた。
「……レヴィ」
初めて知る名前だった。
どこか異国の響き。
海に似合う名前だと、
碧は思った。
「レヴィ……」
無意識に、
その名前を口にする。
するとレヴィが、
ゆっくり碧を見上げた。
「お前は」
碧は一瞬だけ迷って、
静かに答える。
「……深海碧」
波が揺れる。
その名前を、
レヴィは小さく繰り返した。
「アオ……」
その呼び方が妙にくすぐったくて、
碧の胸が少しだけ騒いだ。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




