第5話「海の底の影」
暗い海の底で、
巨大な影が動いた。
ぞわりと、
碧の全身が粟立つ。
逃げろ。
本能がそう叫んでいる。
けれど身体が動かない。
海の中は暗すぎた。
どこにいるのかも、
何がいるのかも分からない。
ただ、
“危険”だけが分かる。
低い唸り声のような音が、
海水を震わせた。
碧の呼吸が乱れる。
肺が苦しい。
恐怖で身体が強張る。
その瞬間。
ぐい、と腕を引かれた。
視界が大きく揺れる。
人魚だった。
白い腕が、
強く碧を抱き寄せる。
「息を止めろ」
低い声。
次の瞬間。
人魚は一気に海を駆けた。
碧の身体が、
水の中で大きく揺れる。
速い。
人間ではありえない速度だった。
海流そのものみたいに、
暗い海を切り裂いていく。
尾びれが揺れるたび、
青金の鱗が深海で光った。
碧は息を呑む。
怖い。
なのに、
目を離せない。
人魚の横顔は、
ぞっとするほど綺麗だった。
その背後。
暗い海の底で、
巨大な影が蠢く。
碧の背筋が凍る。
あれは見てはいけないものだ。
人魚はさらに速度を上げた。
碧を抱える腕に、
力が入る。
まるで、
絶対に離さないみたいに。
やがて。
水面が近付く。
月明かり。
波音。
人魚は碧を抱えたまま、
静かな浜辺へ辿り着いた。
砂浜へ身体が引き上げられる。
碧は激しく咳き込んだ。
肺が焼ける。
視界が滲む。
ぼやけた視界の向こうで、
人魚が静かに碧を見下ろしていた。
青金の瞳。
月光に濡れる金髪。
綺麗なのに、
恐ろしい。
人間ではない。
海の生き物だ。
人魚は何か言いかけて、
わずかに眉を寄せた。
その瞬間。
碧の意識がふっと沈む。
視界が暗くなる。
最後に見えたのは、
海へ溶けるように離れていく、
青金の尾びれだった。
*
ガタガタと、
軽トラの音が近付く。
朝焼け前の薄暗い浜辺。
漁へ向かう途中だった漁師の男が、
砂浜に倒れている人影を見つけ、
慌てて車を止めた。
「おい!!」
駆け寄る。
見えた顔に、
男は目を見開いた。
「深海んとこの兄ちゃんじゃねぇか!」
碧はぐったりしたまま、
浅く呼吸をしていた。
服は濡れて、
砂が付いている。
「おい、しっかりしろ!」
肩を揺さぶられる。
碧はうっすら目を開けた。
ぼやけた視界の中、
見慣れた漁師の顔が見える。
「……あ……」
「何やってんだお前!!
こんなとこで倒れて!」
漁師は青ざめた顔をしていた。
碧の身体は、
海水で冷え切っている。
「とにかく家まで送るぞ!」
そう言って、
碧の身体を支える。
碧は抵抗する力もなく、
そのまま軽トラへ乗せられた。
右手だけを、
無意識に強く握り締めたまま。
*
次に目を覚ました時、
碧は自室のベッドにいた。
窓の外は、
もう昼だった。
身体が重い。
頭もぼんやりする。
夢だったのか。
そう思いかけて。
右手に、
違和感がある。
碧はゆっくり手を開いた。
そこには。
青と金が混ざる、
美しい鱗が一枚。
昼の光を受けて、
静かに輝いていた。
碧の呼吸が止まる。
夢じゃない。
あの海も。
あの瞳も。
あの人魚も。
全部、
本当に存在している。
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『深海に溺れる』は、毎日【22:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
月光に照らされる、切なくきらめく初恋の物語もぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『夜凪に溶ける』




