エピローグ
「そろそろお茶の時間に致しましょう」
家令であるクレオールの言葉に、ファティナは読んでいた手紙に笑みを浮かべ、視線をあげた。
「もうそんな時間ですの?」
ちらりと確認する為に部屋の壁に立つ巨大な時計を見れば、確かに時刻はお茶の刻限に近い。銀のトレーに乗せられた茶器をテーブルに並べながら、クレオールは苦笑した。
「執務が進んでいらっしゃらないようですが」
「エイリク様からのお手紙、とっても楽しそうなのですもの。読んでいるだけでこちらまで幸せになってしまうわ。
今度こちらにも来てくださるのですって。
日程が決まったらもう一度手紙を下さるそうだから、その時はよろしくね、クレオ」
寄宿学校へと進学したエイリクは、現在二年目の秋を迎えて新しい教科が増えたことで忙しくしているという。時には王都にあるメアリ女史の所有している女性専用アパートの一階共有フロアで、メアリ女史に勉強を学ぶこともあるらしい。
そのことはメアリ自身が送ってくれる手紙にも記され、ファティナはその二枚に書かれる事柄の温度差に口元をほころばせた。
メアリ女史からの手紙には、あくまでも「エイリク様は良い生徒」であるという印象しか受け取れないが、エイリクからの手紙を読めば、二人の仲はそれなりに進展しているようにも見える。
――今度、メアリを誘って義母うえの御領地を訪れてみようと思っております。
文末の言葉に視線を落とし、ファティナは元の通りに綺麗に便箋を折りたたみ、封筒に戻した。
「……もう、三年近くたちますのね」
ファティナの切ない呟きに、クレオールはカップを白湯で温めながら、労わるように瞳を細めた。
***
抱きすくめられたまま、ファティナはそれを視界に入れてしまった。
ヴァルファムが先程入り込んだ二階居間の出入り口、そこに立つ憎しみにまみれた顔をした男の姿を。
その手に持つ短銃を。
「貴様がっ、貴様のせいでっ」
銃声が先か、硝子が割れる音が先か、それとも――悲鳴が先だったのか。
いっそう強く抱きすくめられ、抱え込まれて転がりながら、ファティナは翡翠の眼差しを見開き、自分の声とは思われない程その場の空気を引き裂くような高い悲鳴をきいた。
「ヴァルファム様っ、ヴァルファム様っ」
強く抱かれた腕の中で、必死に身じろぎして相手の腕から逃れようとしたのは、守られてなどいたくなかった為だ。
「いやですっ、ヴァルファム様っ」
何故、カディル・ソルドが自分達に――ヴァルファムに向けて銃を向けたのか理解はできていなかった。
そんなことを考える余裕など無かった。
砕け散った硝子も、銃声もファティナの内にありはしない。
恐怖だけがファティナの身を包み込み、ファティナはヴァルファムの胸を叩いた。
「イヤです、イヤ!
わたくしを一人にしないと言ったではありませんかっ。わたくしを妻にするのでしょうっ? 死んではイヤですっ」
自分の内の血の気が一気に下がり、寒気で気が触れてしまいそうだった。
辛い時、どんなときにも共にいてくれた人。
嘘ばかりで、真っ黒で、自分のような酷い人間を抱きしめてくれた人。
太陽のように輝いて、陽だまりのようにあたたかな愛しい人。
それが、父のように、母のように失われるなど――今度こそ耐えられない。
耐えられる訳がない!
「……妻に、なってくださるのですか?」
碧玉の瞳をうっすらと開いて、そっと問われる言葉にファティナは狂ったように声をあげた。
「妻でも、義母でもっ、何にでもなりますから。ですからっ。死ぬなんて言わないでっ。死んでしまうなんてっ、そんなのは絶対にイヤですっ」
「死んだり、しませんよ……ええ」
――ヴァルファムは、
「ヴァルファム様は嘘つきでした」
ファティナは用意された焼き菓子にホークを突き刺し、平坦な口調で呟いた。
幾度思い出しても、その時のことはファティナにとって悪夢でしかない。
「ヴァルファム様は思い返せばいっぱい嘘つきでしたわ。わたくし、ずっと、ずぅっと色々と騙されていた気が致します」
唇を突きだすように不平を並べる女主の様子に、クレオールは微笑した。
二十歳を超えたというのに、彼の主は時折そんな風に子供じみた所作をする。今では陛下の面前で拝謁もすませ、国ではじめて女伯爵という地位を得たというのに。
「手厳しいですね」
つらつらと「嘘つき」を並べるファティナに、丁度執務室の扉をノックもせずに入室したヴァルファムは顔をしかめた。
「あら、いつの間に」
「王都から戻ったのを知っていたからこそ、私の悪口を言っていたのでしょう?」
「そうかもしれませんわね。ヴァルファム様と入れ替わりでエイリク様からお手紙が届きましたのよ。あとで見てさしあげて下さいませね」
ファティナは意地の悪い口調で言い、しかし次の瞬間その表情をほころばせた。昔と変わらず、ヴァルファムは帰宅の挨拶の為にファティナの前に立ち、そして身を伏せた。
瞼に、頬に――そして、唇にゆっくりと口付けを落とす。
「旦那様はお元気でいらっしゃいました?」
「……ファティナ、父を旦那様と言うのはそろそろ止めませんか?
離縁して三年ですよ」
――あの日、悲鳴をあげるファティナを正気に戻したのは、ヴァルファムの喉の奥を鳴らすような笑い声だった。
「死にませんよ。撃たれたのはどうやら私ではありませんから」
そう、その言葉の通り、銃で撃たれたのはヴァルファムではなかった。
動揺していたファティナが周りへと視線をめぐらせると、すでにクレオールと従僕数名によって押さえ込まれた血に濡れたカディルと、そして――散らばった硝子。
何故、窓ガラスが内側に散らばっているのだろうと不思議に思いながら視線を向ければ、居間の左翼側、執務室の丁度真下の部屋に険しい顔をしたヴァルツを見つけ、その意味に気づいた時、ファティナは耳まで真っ赤になってヴァルファムに食って掛かった。
「ヴァルファム様、嘘つきです!」
「嘘はついておりませんよ。死なないでといわれたので、死にませんと応えただけです」
にっこりと微笑みをむけてくる義息に、ファティナは更に体温が上がるのを感じた。
――ヴァルファムが撃たれたのだと思ったというのに、実際は違っていたのだ。
ヴァルファムに銃を向けたカディルに、ヴァルツがいち早く銃を向けたのだ――窓と中庭を挟んだ斜め反対から。後に「足の怪我を推して三階の執務室から二階のテラスにおりるのは苦労であった」とヴァルツは鼻を鳴らしていたが、その時のヴァルツはファティナにとって誰よりも素晴らしい英雄であった。
あの人の妻であった自分はもう、いない。
「旦那様はやっぱり素晴らしいですわよね」
「義母うえっ」
くすくすと笑うファティナに、ヴァルファムが気色ばむように声を上げれば、ファティナは小首をかしげた。
「あら、わたくし間違っておりませんわよね? 旦那様?」
ファティナの含み笑いに、ヴァルファムはその意味に片眉を跳ね上げ、ファティナの頬にそっと指を這わせた。
微苦笑が口元をほころばせ、ついばむように口付ける。
「私の奥方様はもっと――とても、素晴らしいですよ」