第9話 美男美女、らしい
カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
聞き慣れた橘さんの声。
窓際の席でノートパソコンを開いていた俺は、なんとなく顔を上げた。
「こんにちは、橘さん」
「あ、一ノ瀬さん。いらっしゃいませ」
入ってきたのは、すらりと背の高いスーツ姿の男性。
一ノ瀬悠人さんだ。
今日もきっちりとした格好で、髪型まで隙がない。
……この人、寝癖とかつくんだろうか。
「朝倉くんも、こんにちは」
「あ、どうも。一ノ瀬さん」
「今日も仕事?」
「はい。そろそろパソコンの方から退職届を出されそうです」
「ははっ。それは困るね」
「俺も困ります」
そんなくだらない会話を交わして、一ノ瀬さんはカウンター席へ向かった。
初めて会ったときは、なんとなく近寄りがたい人だと思っていた。
でも、何度か顔を合わせるうちに、案外話しやすい人だとわかった。
俺のしょうもない冗談にも笑ってくれるし、仕事の話をすればちゃんと聞いてくれる。
まあ、だからといって、俺があんなふうにスーツを着こなせるようになるわけじゃないんだけど。
……まず身長が足りない。
いや、身長の問題なのか、それ。
*
「そういえば、橘さん」
しばらくして、カウンターの方から一ノ瀬さんの声が聞こえた。
「今度の日曜日って、何か予定ありますか?」
「日曜日ですか?」
「実は、仕事の関係でホテルのアフタヌーンティーに招待されまして」
……アフタヌーンティー。
なんだか俺の人生では、なかなか登場しない単語だ。
「同行する予定だった人が行けなくなってしまったんです。せっかくなので、どなたかご一緒できればと思って」
「そうなんですね」
「季節限定のメニューらしいんですが、橘さん、こういうのはお好きですか?」
一ノ瀬さんがスマホを取り出した。
「こちらなんですけど」
「えっ、見てもいいですか?」
「もちろん」
橘さんが画面を覗き込む。
そして。
「わあ……!」
いつもより、少し高い声がした。
「すごい! これ、可愛いですね!」
……お?
「このケーキ、どうやって作ってるんでしょう。あっ、こっちのタルトも素敵……!」
橘さんが目を輝かせている。
普段は落ち着いた雰囲気の人なのに、今はなんだか楽しそうだ。
「やっぱり、こういうのを見ると気になりますか?」
「はい! つい作り方を考えちゃって」
「さすがですね」
「いえいえ、そんなことないです。でも、一度食べてみたいなあ……」
そう言って、橘さんが笑った。
……へえ。
あんなふうに、はしゃぐんだ。
なんとなく、その横顔を眺めてしまう。
「それなら、よかったらご一緒しませんか?」
……ん?
俺は画面に戻しかけていた視線を、もう一度カウンターへ向けた。
「えっ、私ですか?」
「はい。橘さんとなら、きっと楽しい時間になると思うので」
一ノ瀬さんは、穏やかに笑っていた。
……なるほど。
そういうことか。
いや、そうだよな。
わざわざ日曜日の予定を聞いて、写真まで見せてるんだし。
俺はそっとパソコンに目を戻した。
……別に、聞き耳を立ててたわけじゃないからな。
普通に聞こえただけだから。
「ありがとうございます。でも、すみません」
橘さんの声がした。
「その日は結衣の親子遠足があるんです」
「ああ、そうだったんですね」
「結衣もずっと楽しみにしていて。朝からお弁当を持って出かける予定なんです」
「それは楽しみですね。天気がいいといいですね」
「はい。本当に」
「急なお誘いでしたし、気にしないでください」
「せっかく誘っていただいたのに、すみません」
「いえ。また機会があれば」
そこで話は終わった。
……終わった、はずなんだけど。
俺はしばらく、同じコードを眺めていた。
日曜日は親子遠足。
だから行けない。
つまり、予定がなかったら……。
「……いやいや」
小さく首を振る。
何を考えてるんだ、俺は。
「朝倉さん?」
「うおっ」
顔を上げると、舞さんが立っていた。
「どうしました? 急に首振って」
「あ、いや。ちょっとバグが」
「バグ?」
「はい。俺の頭の方に」
「それ、修理できるんですか?」
「できると信じたいですね」
舞さんは声を立てて笑った。
……頼むから、これ以上突っ込まないでほしい。
*
「それにしても、一ノ瀬さんって本当に素敵よねえ」
カウンターの方から、別の声がした。
常連のおばさまだ。
いつも午後になると来店して、コーヒーを飲みながら橘さんと世間話をしている。
「え? 僕ですか?」
一ノ瀬さんが振り向く。
「そうよ。背も高いし、スーツも似合うし。俳優さんみたいじゃない」
「はは、そんなことないですよ」
「またまた。ねえ、星莉奈ちゃんもそう思うでしょ?」
「えっ、私ですか?」
橘さんは少し驚いた顔をして、それから微笑んだ。
「そうですね。一ノ瀬さんは、すごく素敵な方だと思います」
……おお。
そりゃそうだよな。
誰が見たって、そう思うだろう。
「ほらねえ!」
おばさまは嬉しそうに手を叩いた。
「星莉奈ちゃんも綺麗なんだから、二人で並んだら美男美女じゃない!」
「もう、そんな。からかわないでくださいよ」
橘さんが困ったように笑う。
一ノ瀬さんも、少し照れくさそうだった。
……美男美女。
俺はちらっと二人を見た。
背が高くて、整った顔立ちで、スーツがよく似合う一ノ瀬さん。
その隣で笑う、橘さん。
……うん。
確かに、絵になる。
なんというか、ドラマのワンシーンみたいだ。
俺は自分の格好に目を落とした。
パーカーにジーンズ。
足元は、いつものスニーカー。
……いや、別にいいんだよ。
仕事するには楽だし。
このパーカー、気に入ってるし。
そもそも、なんで比べてるんだ?
「朝倉さん」
「はいっ!」
思わず変な声が出た。
橘さんが、少し不思議そうにこちらを見ていた。
「コーヒーのおかわり、いかがですか?」
「あ、お願いします」
「ふふっ、わかりました」
橘さんがカップを受け取る。
その笑顔を見ながら、俺はまた考えてしまった。
……なんだろうな。
別に、一ノ瀬さんが嫌いなわけじゃない。
むしろ、いい人だと思う。
橘さんだって、誰と仲良くしたって自由だ。
なのに。
さっきから、胸のあたりが妙に落ち着かない。
*
「それじゃあ、そろそろ失礼します」
しばらくして、一ノ瀬さんが席を立った。
「ありがとうございました。またお待ちしてますね」
橘さんが笑顔で見送る。
「はい。また来ます」
一ノ瀬さんは出口へ向かいかけて、俺の方を見た。
「朝倉くん、仕事は進んだ?」
「いやあ、今日はなかなか手強いですね」
「そうなんだ」
「パソコンと話し合いを続けてるんですけど、向こうが全然折れてくれなくて」
「ははっ。仲直りできるといいね」
「頑張ります」
「じゃあ、また」
一ノ瀬さんが軽く手を上げた。
俺も片手を上げて返す。
「はい。また!」
カラン、とドアベルが鳴った。
ガラス越しに見える背中が、通りの向こうへ消えていく。
……ほんと、感じのいい人なんだよな。
あれで仕事もできるんだから、すごいよなあ。
……。
美男美女、か。
「……はあ」
小さく息を吐く。
別に、ため息をつくようなことなんて何もない。
何もない、はずなんだけど。
……仕事しよ。
*
それから少し経った頃。
「朝倉さん、ちょっといいですか?」
顔を上げると、橘さんが小さなお皿を持って立っていた。
「はい?」
「実は、新作のケーキを作ってみたんですけど……」
お皿の上には、淡い色のクリームと果物で飾られた、小ぶりなケーキが載っていた。
「よかったら、感想を聞かせてもらえませんか?」
「えっ、いいんですか?」
「はい。ぜひ」
橘さんは、俺の前にお皿を置いた。
「朝倉さんに食べてもらいたくて」
……俺に?
なんとなく、顔を上げる。
橘さんはいつものように微笑んでいた。
「いやあ、責任重大ですね」
「ふふっ、そんなに構えなくて大丈夫ですよ」
「じゃあ、遠慮なくいただきます」
フォークを入れる。
柔らかい生地とクリームを一緒にすくって、口に運んだ。
「……うまっ」
「本当ですか!?」
橘さんが、ぱっと顔を上げた。
「はい。これ、めちゃくちゃ美味しいですよ」
「よかったぁ……!」
ほっとしたように胸をなで下ろす。
「実は、クリームの甘さを何度も調整してたんです。なかなか納得できなくて」
「へえ。そうだったんですね」
「昨日やっと、これだって思える味になったんですけど、まだちょっと自信がなくて……」
「いや、これ絶対人気出ますって」
「本当ですか?」
「はい。俺、もう一個食べたいくらいです」
その瞬間。
「やったぁ!」
橘さんが、両手を胸の前できゅっと握った。
嬉しそうに、声を弾ませて。
まるで、ずっと欲しかったものをプレゼントされた子どもみたいに笑った。
……あ。
思わず、見入ってしまった。
いつもの、落ち着いた店長の顔じゃない。
結衣ちゃんが何かに大喜びしているときの顔に、少し似ていた。
……へえ。
橘さんって、こんなふうに笑うんだ。
綺麗な人だとは、前から思ってたけど。
……可愛い人だな。
「……朝倉さん?」
「えっ、あ、はい!」
「どうかしました?」
「い、いや! なんでもないです!」
慌ててケーキに視線を戻す。
……なんだ、今の。
心臓、ちょっと変な動きしなかったか?
「ふふっ。そんなに気に入ってもらえたなら、嬉しいです」
「あ、はい。ほんとに美味しいです」
……落ち着け、俺。
ただケーキを食べてるだけだぞ。
何を緊張する必要があるんだ。
*
「店長〜?」
カウンターの向こうから、舞さんが顔を出した。
「そのケーキ、私まだ食べてないんですけど?」
「あっ!」
橘さんが振り返る。
「ごめん、舞ちゃん! 今持ってくるね!」
「えー、私も楽しみにしてたのに」
「本当にごめんってば」
舞さんは、にやっと笑った。
「ふふっ。朝倉さんが一番乗りなんですねえ」
「もう、舞ちゃん!」
橘さんが、少しだけ頬を赤くした。
「たまたま朝倉さんがいらっしゃったから、お願いしただけだよ」
「はいはい。そういうことにしておきます」
「舞ちゃん!」
二人のやり取りに、俺は思わず笑ってしまった。
「なんかすみません。俺が先に食べちゃって」
「いえいえ、朝倉さんは悪くないですよ」
舞さんが、妙に楽しそうな顔で言う。
「ね、店長?」
「もうっ!」
橘さんが厨房へ戻っていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺はもう一口ケーキを食べた。
……うまい。
さっきまで、あんなに落ち着かなかったのに。
今はなんだか、妙に気分がいい。
……単純だな、俺。
*
夕方になって、店のドアが勢いよく開いた。
「つーくーん!」
「おっ、結衣ちゃん!」
舞さんに連れられて帰ってきた結衣ちゃんが、まっすぐ俺のところへ走ってきた。
その後ろから、爽太くんも顔を出す。
「おじちゃん、こんにちは!」
「おう、爽太くんもこんにちは!」
……おじちゃん。
まあ、もう慣れた。
慣れた……はずだ。
「つーくん! あのね!」
「おう、どうした?」
「こんどね、えんそくなの!」
「ああ、聞いたよ。楽しみだね」
「うん! おべんとうもってくの!」
「いいねえ。何入れてもらうの?」
「たまごやき!」
「おお、いいじゃん」
「あとね、ウインナー!」
「最高じゃないか」
「あとね、いちご!」
「豪華だなあ。俺も行きたくなってきた」
結衣ちゃんが、ぱっと笑った。
「じゃあ、つーくんもいっしょにいこ!」
「えっ、俺も?」
「うん!」
俺は思わず笑ってしまった。
「でも、親子遠足なんでしょ? 俺は行けないよ」
「えーっ」
結衣ちゃんが頬を膨らませる。
「つーくんもきたら、たのしいのに」
……。
なんだろう。
その一言が、妙に嬉しかった。
「ありがとな、結衣ちゃん」
「じゃあ、こんどいっしょにあそぼ!」
「もちろん!」
小さな手が差し出される。
俺も小指を伸ばして、指切りをした。
「やくそく!」
「おう、約束」
「ふふっ」
顔を上げると、橘さんが少し離れたところで笑っていた。
「結衣、本当に朝倉さんのことが大好きなんだから」
「いやあ、光栄ですね」
「いつも遊んでもらってばかりで、すみません」
「いえいえ。俺も楽しいですから」
そう答えると、橘さんは嬉しそうに目を細めた。
「……ありがとうございます、朝倉さん」
その笑顔を見て。
また、少しだけ胸が跳ねた。
……あれ。
今日、なんかおかしいな。
*
帰り道。
いつものようにスマホを取り出して、何気なく時刻を確認する。
画面には、仕事の通知がいくつか並んでいた。
……明日の俺、頑張れ。
そう思ってスマホをしまいかけたとき、ふと昼間のことを思い出した。
一ノ瀬さん。
ホテルのアフタヌーンティー。
美男美女。
そして、橘さんの笑顔。
……。
なんで、こんなに覚えてるんだろうな。
別に俺が誘われたわけでも、断られたわけでもないのに。
それなのに、一ノ瀬さんが帰ったときは少しほっとして。
橘さんが俺にケーキを持ってきてくれたときは、嬉しくなって。
あんなふうに笑った顔を見たら、心臓まで変になって。
「……なんだよ、これ」
誰に言うでもなく、呟いた。
夜風が、頬を撫でていく。
見上げると、空には小さな星がいくつか瞬いていた。
ふと、昨日の帰り道を思い出す。
橘さんと並んで歩きながら、星の話をしたこと。
真剣に聞いてくれていた、あの横顔。
……そういえば。
あのときの橘さんも、なんだか綺麗だったな。
……。
「……いや、待て待て」
俺は立ち止まった。
さっきから、何を考えてるんだ。
昼間は一ノ瀬さんのことが気になって。
今は橘さんのことばっかり考えてる。
……仕事のバグより、こっちの方が厄介なんじゃないか?
小さく息を吐いて、また歩き出す。
胸の奥が、まだ少し落ち着かない。
だけど、不思議と嫌な感じはしなかった。
……ほんと。
どうしちゃったんだろうな、俺。
第9話「美男美女、らしい」をお読みいただき、ありがとうございます!
今回は、いつもマイペースな翼の心が、ちょっとだけ忙しくなるお話でした。
一歩踏み込んだアプローチを始めた悠人。
そんな悠人を素敵な人だと思いながらも、なぜか落ち着かない翼。
そして星莉奈はというと、どうやら本人も気づかないうちに、ある人を特別扱いしているようで……。
人を好きになる瞬間って、案外、自分では気づかないものなのかもしれませんね。
さて、翼が自分の気持ちに気づく日は来るのでしょうか。
そして、星莉奈の「一番に食べてほしい人」は、これからも変わらないのでしょうか。
少しずつ動き始めた三人の関係を、これからも温かく見守っていただけたら嬉しいです。
次回もよろしくお願いします!




