第10話 待っていたのは
カチ、カチ、カチ。
壁の時計が、静かに時を刻んでいる。
私はカウンターの中から、その針を見上げた。
午後二時十五分。
……まだ、この時間なんだ。
「星莉奈ちゃん」
「はい?」
声のした方へ振り向くと、カウンター席の鈴さんが、こちらを見て微笑んでいた。
「さっきから、時計ばっかり見てるわねえ」
「えっ? そうですか?」
「ふふっ。誰か待ってるの?」
「いえ、そんなことないですよ」
「そう? 今日はまだ来てないものねえ」
「ち、違いますよ! 別に朝倉さんを待ってるわけじゃ……!」
……あ。
そこまで言って、私は口をつぐんだ。
鈴さんが、にっこり笑う。
「あら? 私、朝倉くんのことだなんて一言も言ってないわよ?」
「……っ!」
顔が熱くなる。
「ち、違うんです! 朝倉さん、いつもこのくらいの時間にいらっしゃるから、なんとなく……!」
「ええ、ええ。そういうことにしておきましょうね」
「もう、鈴さん……!」
鈴さんは楽しそうにコーヒーを一口飲んだ。
私は逃げるように、カウンターの下に置いてあった布巾を手に取った。
もう綺麗になっている場所を、意味もなく拭く。
……どうしよう。
変なこと、言っちゃった。
別に、朝倉さんを待っていたわけじゃ……。
……。
待って、いたのかな。
私はもう一度、時計を見上げそうになって、慌てて手元に視線を戻した。
*
カラン。
「こんにちはー」
聞き慣れた声がした。
「あっ、朝倉さん!」
自分でも驚くくらい、声が弾んだ。
朝倉さんは、いつものパーカー姿で片手を上げる。
「どうも、橘さん。今日もお邪魔します」
「はい、いらっしゃいませ!」
私は急いでメニューを手に取った。
「いつものコーヒーでよろしいですか?」
「あ、お願いします。今日はちょっと甘いものも欲しい気分ですね」
「それなら、昨日のケーキはいかがですか? 今日からメニューに出してるんです」
「おっ、あれですか! じゃあ、それもお願いします」
「ふふっ、ありがとうございます」
朝倉さんが窓際の席へ向かう。
その後ろ姿を見送っていると。
「……ふふっ」
鈴さんの笑い声が聞こえた。
「……鈴さん?」
「いいえ、何でもないわ」
そう言いながら、鈴さんはちっとも笑いを隠していない。
……もう。
私は小さく頬を膨らませた。
*
それからしばらくして。
カラン、とドアベルが鳴った。
「こんにちは」
「あ、一ノ瀬さん。いらっしゃいませ」
スーツ姿の一ノ瀬さんが入ってきた。
「今日はお仕事、早く終わったんですか?」
「ええ。近くで打ち合わせがあったので、その帰りに」
「お疲れさまです」
一ノ瀬さんはカウンター席に腰を下ろした。
「今日は何にしましょう?」
「じゃあ、コーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
注文を受けていると、窓際から朝倉さんの声がした。
「あ、一ノ瀬さん。どうも!」
「朝倉くん、こんにちは。今日も頑張ってるね」
「頑張ってはいるんですけどねえ。成果が追いついてこなくて」
「ははっ。大変だね」
何度か顔を合わせるうちに、二人もすっかり打ち解けたみたい。
最初は少し雰囲気の違う二人だと思っていたけれど、こうして笑い合っている姿を見ると、なんだか嬉しくなる。
……朝倉さんって、本当に誰とでも自然に話せる人なんだな。
そんなことを考えながら、私はコーヒーを淹れた。
*
夕方。
「ただいまー!」
「ママー!」
舞ちゃんが保育園のお迎えから戻ってきた。
結衣と爽太くんが、元気よく店に入ってくる。
「おかえり、結衣」
「ママ! きょうね、おえかきしたの!」
「そうなの? あとで見せてね」
「うん!」
結衣はそれだけ言うと、窓際へ走っていった。
「つーくーん!」
「おっ、結衣ちゃん。おかえり!」
「ただいま!」
朝倉さんが笑顔で迎える。
最近の結衣は、リアンに帰ってくると、まず朝倉さんのところへ行く。
少し前までは、真っ先に私のところへ飛び込んできていたのに。
……ちょっとだけ、寂しいかも。
でも。
あんなに嬉しそうな結衣を見ると、やっぱり私まで嬉しくなる。
「おじちゃん!」
今度は爽太くんが、カウンター席の一ノ瀬さんに声をかけた。
「ん? こんにちは、爽太くん」
「なにしてるの?」
「ちょっと仕事のメールを返してたんだ」
「おしごと?」
「そうだよ」
爽太くんは、一ノ瀬さんの顔をじっと見つめた。
何か考えているような顔。
……あ。
あの顔、舞ちゃんにそっくり。
何か面白いことを思いついたときの顔だ。
「おじちゃん、めつぶって!」
「え? どうして?」
「いいから!」
「わかった、わかった」
一ノ瀬さんが素直に目を閉じる。
爽太くんは小さなリュックをごそごそと探り始めた。
取り出したのは、ピンク色のリボンがついたヘアクリップ。
……それ、何に使うつもり?
爽太くんは背伸びをすると、一ノ瀬さんの前髪にそっとクリップを留めた。
「もういいよ!」
「……ん?」
一ノ瀬さんが目を開ける。
「おじちゃん、おひめさま!」
「……お姫様?」
爽太くんが得意げに笑った。
「うん! かわいい!」
私は思わず口元を押さえた。
きっちり整えられた髪。
端正な顔立ち。
そこに、ちょこんとついたピンク色のリボン。
……ふふっ。
だ、駄目。
笑っちゃ失礼なのに。
「ちょっと待って、何それ!」
舞ちゃんが振り返った。
そして、一ノ瀬さんの姿を見るなり。
「あははははっ!」
声を上げて笑い始めた。
「爽太! 何やってんの!」
「ママ! おじちゃん、おひめさま!」
「ほんとだ! めっちゃ美人!」
「……田中さんまで」
一ノ瀬さんが困ったように笑う。
「せめて王子様にしてもらえないかな?」
「やだー!」
「即答なんだね……」
窓際から、朝倉さんの笑い声が聞こえた。
「一ノ瀬さん、似合ってますよ!」
「朝倉くん、絶対面白がってるよね?」
「いやいや、本当に。新しい可能性を感じます」
「どんな可能性なの、それ」
そのやり取りに、舞ちゃんがまた吹き出した。
「もう駄目、お腹痛い……!」
一ノ瀬さんは苦笑しながら、前髪のリボンにそっと触れた。
「……これ、取ってもいいかな?」
「だめ!」
「えっ」
「おひめさまのまま!」
「なかなか厳しいなあ」
爽太くんは大満足の様子で、一ノ瀬さんの隣に立っている。
舞ちゃんは目尻の涙を指で拭いながら笑った。
「一ノ瀬さん、ごめんなさい。爽太、こういういたずら大好きで」
「いえ。なかなか楽しいですね」
「でしょ? 私も毎日こんな感じです」
「毎日ですか。それは大変だ」
「大変ですけど、飽きないですよ」
舞ちゃんが爽太くんの頭をくしゃっと撫でる。
一ノ瀬さんは、そんな二人を見て微笑んだ。
……なんだか、いい雰囲気。
いつも落ち着いている一ノ瀬さんが、今日は少し違って見える。
爽太くんのおかげかな。
*
「つーくん!」
結衣が、朝倉さんの袖を引っ張った。
「ん? どうした?」
「こんどね、えんそくいったんだよ!」
「おお! 親子遠足、どうだった?」
「たのしかった!」
結衣は両手を広げて、一生懸命話し始めた。
「おべんとうたべてね、いっぱいあるいたの!」
「へえ。何が一番楽しかった?」
「えっとね……」
結衣は少し考えてから、にっこり笑った。
「ママといっしょだったこと!」
……!
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「そっかあ。それはよかったな」
朝倉さんが、結衣の頭を優しく撫でた。
「ママもきっと、楽しかったと思うよ」
「うん!」
結衣が嬉しそうに笑う。
私は二人を見ながら、思わず微笑んでいた。
……本当に、楽しかったよ。
結衣。
朝倉さんが顔を上げた。
目が合う。
すると、朝倉さんはいつものように、少し照れくさそうに笑った。
……あ。
まただ。
胸の奥が、ほんの少しだけ跳ねた。
*
夕方の忙しさが落ち着いた頃。
「星莉奈ちゃん」
鈴さんが、空になったカップを私に差し出した。
「ごちそうさま。今日も美味しかったわ」
「ありがとうございます」
カップを受け取りながら、私は微笑んだ。
「今日は賑やかでしたね」
「そうねえ。見てるだけで元気をもらっちゃった」
鈴さんは、窓際の席に目を向けた。
朝倉さんは、結衣と爽太くんが描いた絵を見せてもらっている。
「これ、俺?」
「そう!」
「……なんか頭が四角くない?」
「つーくん、パソコンだから!」
「俺、ついにパソコンになったの!?」
子どもたちの笑い声が響く。
私も、思わず笑ってしまった。
「……楽しそうねえ」
「はい」
自然と、返事がこぼれた。
鈴さんはそんな私を見て、優しく微笑んだ。
「星莉奈ちゃん」
「はい?」
「朝倉くんが来る前と、来たあとじゃ、ずいぶん表情が違うわね」
「……えっ?」
「ふふっ。今の顔、とってもいい顔よ」
私は何も言えなかった。
鈴さんは、それ以上からかうこともなく、静かに席を立った。
「じゃあ、また来るわね」
「あ、はい! ありがとうございました!」
ドアベルが鳴る。
鈴さんの姿が見えなくなってからも、私はしばらくその場に立っていた。
……表情が、違う。
そうなのかな。
自分では、そんなつもりなかったのに。
ふと、窓際を見る。
朝倉さんが結衣たちと笑っている。
その姿を見ているだけで、なんだかほっとする。
……そういえば。
今日は、朝倉さんが来るまで何度も時計を見ていた。
ドアベルが鳴った瞬間、嬉しくなった。
そして今も、あの人が笑っていると、つられて笑ってしまう。
……。
私は、胸元にそっと手を当てた。
これって、もしかして。
「ママー!」
結衣の声がした。
「つーくんがね! パソコンになっちゃった!」
「えっ?」
「俺、もう人間に戻れないらしいです」
朝倉さんが、困ったように笑う。
その顔を見た途端、私も笑ってしまった。
「ふふっ。それは大変ですね」
「ですよねえ。どうしたらいいと思います?」
「そうですね……まずは電源を切ってみましょうか」
「えっ、俺の!?」
結衣と爽太くんが大笑いする。
朝倉さんも、つられて笑った。
私も笑う。
……ああ。
そっか。
朝倉さんがいると、楽しいんだ。
それだけじゃ、ないのかもしれない。
でも。
今はまだ、その先を考えるのが少し怖かった。
私はもう一度、壁の時計を見上げた。
針は、いつもと変わらず進んでいる。
なのに。
朝倉さんが来る前より、ずっと早く時間が過ぎている気がした。
第10話「待っていたのは」をお読みいただき、ありがとうございます!
ついに第10話を迎えることができました!
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます!
今回は、鈴さんにすっかり見透かされてしまった星莉奈のお話でした。
何気なく時計を見てしまうこと。
聞き慣れた声に、思わず嬉しくなってしまうこと。
自分では気づいていない気持ちも、案外、周りの人には見えているのかもしれませんね。
そして、爽太のいたずらでリアンは今日も大賑わい!
普段は落ち着いた悠人も、子どもの無邪気さには敵わなかったようです(笑)。
賑やかで、何気なくて、でもどこか特別な時間。
そんなリアンの日常を、これからも楽しんでいただけたら嬉しいです。
星莉奈が時計を気にしなくなる日は、果たして来るのでしょうか。
次回もよろしくお願いします!




