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第11話 楽しみがひとつ増えた日

朝、リアンの扉を開けると、少しひんやりとした空気が頬を撫でた。


 いつものように照明をつけ、カウンターに入る。


 コーヒー豆を補充して、テーブルを拭いて、開店の準備を進める。


 何度も繰り返してきた、いつもの朝。


 なのに最近、ひとつだけ変わったことがある。


 ……時計。


 壁に掛かった時計を見上げて、私は小さくため息をついた。


 また見ちゃった。


 鈴さんに言われてから、余計に意識するようになってしまった気がする。


『誰か待ってるの?』


 あの日の鈴さんの声が、頭の中によみがえる。


「……もう」


 思わず独り言がこぼれた。


 別に、待っているわけじゃない。


 ただ、朝倉さんが来るとお店が賑やかになるし、結衣も喜ぶし……。


 ……私も。


「……って、何考えてるんだろ」


 慌てて首を振った。


 今日はまだ始まったばかり。


 考えることなら、ほかにもたくさんある。


 私はエプロンの紐を結び直して、開店の札を表に返した。


     *


 午後。


 カラン、とドアベルが鳴った。


「こんにちはー」


 聞き慣れた声。


「あ、朝倉さん。いらっしゃいませ!」


「どうも、橘さん」


 朝倉さんはいつものように笑いながら、窓際の席へ向かった。


「今日はいい天気ですね」


「そうですね。お出かけ日和です」


「こんな日は、どこか行きたくなりますねえ」


「ふふっ、そうですね」


 何気ない会話。


 いつもと変わらないはずなのに。


 ……お出かけ、か。


 朝倉さんは休日、何をしているんだろう。


 そんなことが、ふと気になった。


「あの、朝倉さん」


「はい?」


「お休みの日って、何をされてるんですか?」


「休みの日ですか?」


 朝倉さんは少し考えた。


「ゲームしたり、買い物行ったり……まあ、普通ですよ」


「そうなんですね」


「橘さんは?」


「私は結衣と過ごすことが多いですね。公園に行ったり、お買い物したり」


「いいですねえ」


 朝倉さんが優しく笑う。


「結衣ちゃん、きっと喜ぶでしょうね」


「ふふっ。元気すぎて大変ですけどね」


「ははっ、想像できます」


 その笑顔を見ていると、なんだかもっと話していたくなる。


 ……あれ?


 私、こんなにおしゃべりだったかな。


「橘さん?」


「は、はい!」


「……どうかしました?」


「い、いえ! 何でもないです!」


 朝倉さんが不思議そうに首をかしげる。


 ……恥ずかしい。


 私は慌ててカウンターへ戻った。


     *


 夕方。


「ただいまー!」


「ママー!」


 舞ちゃんが結衣と爽太くんを連れて帰ってきた。


「おかえり、結衣」


「ママ!」


 結衣は私に抱きつくと、すぐに窓際へ顔を向けた。


「あっ! つーくん!」


「おっ、結衣ちゃん。おかえり!」


「ただいまー!」


 結衣は嬉しそうに朝倉さんのところへ駆け寄った。


「つーくん、あのね!」


「ん? どうした?」


「きょうね、どうぶつのほん、みたの!」


「へえ! どんな動物?」


「きりん! あとね、ぞうさん!」


「おお、いいねえ」


 朝倉さんは結衣の目線に合わせて、楽しそうに話を聞いている。


「つーくん、どうぶつえんいったことある?」


「あるよ!」


「ほんと!?」


「うん。キリンもゾウも見たことある」


「いいなあ!」


「結衣ちゃんも行ったことあるでしょ?」


「あるけど、またいきたい!」


「そっかあ」


 結衣は少し考えるように首をかしげた。


 そして、ぱっと顔を輝かせる。


「じゃあ、つーくんもいっしょにいこう!」


「……えっ?」


 朝倉さんが目を丸くした。


「俺も?」


「うん!」


「ははっ、嬉しいなあ。でも、お母さんに聞かないとね」


 そう言って、朝倉さんがこちらを見る。


「……橘さん、どうしましょう?」


 突然話を振られて、少し驚いた。


 朝倉さんと、動物園。


 結衣と三人で……。


 ……。


「……私は、構いませんよ?」


「えっ、本当ですか?」


「はい。結衣も喜びますし……」


 そこまで言って、少しだけ言葉に詰まった。


「……私も、楽しそうだなって」


 朝倉さんが、ふっと笑った。


「じゃあ、ぜひ!」


「やったー!」


 結衣が両手を上げて喜ぶ。


 その姿につられて、私も笑ってしまった。


 ……なんだろう。


 胸の奥が、少しくすぐったい。


     *


「えー! どうぶつえん!?」


 突然、大きな声が響いた。


 振り返ると、爽太くんがこちらを見ていた。


「ぼくもいく!」


「おっ、爽太も行きたいの?」


 舞ちゃんが笑いながら尋ねる。


「うん! ゆいちゃんといく!」


「そっかそっか」


 舞ちゃんは私を見て、にっこり笑った。


「じゃあ、せっかくだし、みんなで行っちゃう?」


「ふふっ、いいね!」


「やったー!」


 爽太くんは飛び跳ねながら喜んだ。


 ところが。


「あっ!」


 何かを思い出したように、カウンター席へ駆け出した。


「おじちゃーん!」


「ん?」


 一ノ瀬さんが顔を上げる。


「どうしたの、爽太くん?」


「おじちゃんも!」


「……僕?」


「どうぶつえん!」


「動物園?」


「いっしょにいこ!」


 一ノ瀬さんは驚いたように目を瞬かせた。


 そして、ゆっくり笑った。


「僕も誘ってくれるの?」


「うん!」


「ありがとう。嬉しいな」


 その様子を見て、舞ちゃんが吹き出した。


「あははっ! 一ノ瀬さん、すっかり爽太のお気に入りですね!」


「そうみたいですね」


「この前のお姫様がよっぽど楽しかったんだね、爽太!」


「おひめさま!」


 爽太くんが嬉しそうに叫ぶ。


「……あれは忘れてもらえると助かるんですが」


 一ノ瀬さんが苦笑する。


 その表情がおかしくて、私も思わず笑ってしまった。


「じゃあ、一ノ瀬さんも一緒にどうですか?」


 舞ちゃんが尋ねる。


「えっ、僕も本当にいいんですか?」


「もちろん! 人数多いほうが楽しいですし!」


「……そうですね。ぜひ、ご一緒させてください」


「よーし!」


 舞ちゃんが手を叩いた。


「じゃあ、六人で動物園、決まり!」


「やったー!」


 結衣と爽太くんの声が重なった。


 朝倉さんも楽しそうに笑っている。


「いやあ、賑やかになりそうですね!」


「ふふっ、そうですね」


 私は頷きながら、みんなの顔を見渡した。


 ……六人で動物園。


 なんだか、すごく楽しそう。


     *


「ねえねえ、いついくの?」


 結衣が私の袖を引っ張った。


「そうだねえ。みんなのお休みが合う日かな」


「はやくいきたい!」


「ぼくも!」


 爽太くんが元気よく手を上げる。


「ははっ、まだ日にちも決まってないのに」


 朝倉さんが笑った。


「でも、楽しみですね」


 その言葉に、私は思わず顔を上げた。


「……はい」


 目が合う。


 朝倉さんが、いつものように笑う。


 私も、自然と笑い返していた。


 ……楽しみ。


 たったそれだけのことなのに。


 どうして、こんなに嬉しいんだろう。


     *


 夜。


 結衣を寝かしつけたあと、私はリビングのソファに腰を下ろした。


 テーブルの上には、結衣が描いた一枚の絵。


 大きなキリンとゾウ。


 そして、その前で手をつないでいる三人。


 私と、結衣と……朝倉さん。


「……ふふっ」


 思わず笑みがこぼれた。


 まだ動物園にも行っていないのに。


 結衣の中では、もう楽しい一日が始まっているみたい。


 私は絵を手に取って、もう一度眺めた。


 三人とも、大きな口を開けて笑っている。


 真ん中には結衣。


 その両隣に、私と朝倉さん。


 ……なんだろう。


 こうして並んでいると、まるで……。


「……っ!」


 そこまで考えて、慌てて首を振った。


「……もう、何考えてるんだろ」


 誰もいないリビングで、一人、顔が熱くなる。


 ただの絵なのに。


 結衣が楽しみにして描いただけなのに。


 ……でも。


 不思議と、嫌な気持ちはしなかった。


 私はもう一度、絵に目を落とした。


 朝倉さんは、今日も結衣の話を楽しそうに聞いてくれていた。


 動物園に誘われたときも、少し驚きながら、すぐに笑ってくれた。


『じゃあ、ぜひ!』


 その声を思い出す。


 ……嬉しかったな。


 結衣が喜んでくれたことも。


 みんなで出かけられることも。


 もちろん、それもあるけれど。


 ……。


 私は今日、初めて自分から朝倉さんと出かけたいと思ったのかもしれない。


 結衣のためだけじゃなくて。


 ……私自身が。


「……ふふっ」


 また、笑みがこぼれた。


 鈴さんに見られたら、きっとまた何か言われちゃうんだろうな。


 私は結衣の絵をそっとテーブルに戻した。


 明日も、リアンはいつもどおり開く。


 朝倉さんも、きっといつものようにやってくる。


 でも。


 今までとは、少しだけ違う。


 カレンダーを開くのが、なんだか楽しみになった。


 ……早く、日にちが決まらないかな。


 そんなことを考えながら、私はそっと微笑んだ。


 楽しみが、ひとつ増えた。

十一話のあとがき、こんな感じでどうだろう。第十一話『楽しみがひとつ増えた日』をお読みいただき、ありがとうございます。時計を見上げてしまう星莉奈の小さな変化、気づいてもらえたでしょうか。結衣の「つーくんと!」という一言が、みんなの休日を少しだけ前に進めました。誰かを特別に思う気持ちは、ふとした瞬間や何気ない言葉の中に出てしまうのかもしれません。賑やかで、まだ何も起きていない優しい時間を、今回は大切に描きました。楽しみが増える瞬間を、一緒に味わっていただけたら嬉しいです。次回もよろしくお願いします。

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