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第12話 君と見る景色

待ち合わせの時間まで、あと十分。


「ママ! つーくん、まだかなあ?」


「ふふっ、もうすぐ来ると思うよ」


「はやくこないかなー!」


 結衣は私の手を握ったまま、何度も動物園の入口を見ている。


 今日は、みんなで動物園に行く日。


 あの日、リアンで決まった約束が、ようやく今日になった。


 結衣は昨日からずっと楽しみにしていて、今朝なんて私より早く起きてしまったくらいだ。


 ……まあ。


 私も、いつもより少し早く目が覚めたんだけど。


 それに、今日は服を選ぶのにも少し時間がかかってしまった。


 淡い水色のブラウスに、白いロングスカート。


 髪も、いつもより少しだけ丁寧に整えてきた。


 動物園だから、歩きやすいスニーカーも忘れずに。


 ……別に、誰かに見せたいわけじゃない。


 せっかくのお出かけだから。


 ただ、それだけ。


「……ママ?」


「えっ?」


「なんでわらってるの?」


「えっ、笑ってた?」


「うん!」


「……ふふっ。楽しみだからかな」


「ゆいも!」


 結衣が嬉しそうに笑った。


 そのとき。


「おーい!」


 聞き慣れた声がした。


「あっ! つーくん!」


 結衣がぱっと顔を上げる。


 入口の向こうから、朝倉さんが手を振りながら歩いてきた。


「おはようございます!」


「おはようございます、朝倉さん」


「おはようございます、橘さ……」


 そこで、朝倉さんの言葉が止まった。


「……?」


 朝倉さんが、こちらを見ている。


 いつもより、少しだけ長く。


「あの……朝倉さん?」


「あっ、いえ!」


 朝倉さんは、はっとしたように視線を逸らした。


「その……今日は、いつもと雰囲気が違いますね」


「えっ?」


 思わず自分の服に目を落とす。


「……変、ですか?」


「い、いや! 全然!」


 朝倉さんが慌てて首を振った。


「その……すごく似合ってます」


「……っ」


 今度は、私の言葉が止まった。


「……ありがとうございます」


 なんとかそう答えると、朝倉さんは少し照れくさそうに笑った。


 ……もう。


 そんなふうに言われたら、こっちまで恥ずかしくなるじゃないですか。


「つーくん!」


「ん?」


 結衣が朝倉さんの手を引っ張った。


「ママ、かわいいでしょ!」


「えっ!? 結衣!?」


「う、うん。かわいいね」


「……っ!」


 思わず朝倉さんを見る。


 目が合った。


 そして、二人同時に視線を逸らしてしまった。


 ……どうしよう。


 まだ動物園にも入っていないのに。


 今日一日、ちゃんと普通に話せるかな。


     *


「おっはよー!」


 元気な声とともに、舞ちゃんたちがやってきた。


「おはようございます、星莉奈さん!」


「おはよう、舞ちゃん」


「ゆいちゃーん!」


「そうたくん!」


 爽太くんと結衣が嬉しそうに駆け寄る。


「きょう、ライオンみる!」


「ゆいはきりん!」


「ライオンのほうがつよいぞ!」


「きりんさんのほうがおっきいもん!」


「ライオンはガオーってするんだぞ!」


「きりんさんだって……」


 結衣が少し考え込む。


「……くび、ながいもん!」


「ぷっ!」


 舞ちゃんが吹き出した。


「あははっ! それは確かにキリンの勝ちかも!」


 朝倉さんも笑っている。


「結衣ちゃん、いいところに気づいたねえ」


「えへへ!」


 得意そうな結衣。


 そのとき。


「おはようございます」


 落ち着いた声が聞こえた。


 振り返ると、一ノ瀬さんが立っていた。


 今日もきちんとした服装だけれど、いつものスーツ姿とは違う。


 爽やかなシャツに、動きやすそうなパンツ。


「一ノ瀬さん、おはようございます」


「おはようございます、橘さん」


「おじちゃーん!」


 爽太くんが駆け寄る。


「おはよう、爽太くん」


「きょうはおひめさまじゃないの?」


「……今日は違うかな」


「えー!」


「えー、って言われてもね」


 困ったように笑う一ノ瀬さん。


 舞ちゃんが肩を震わせている。


「一ノ瀬さん、もう完全に覚えられちゃいましたね」


「そのようですね……」


「ははっ、一ノ瀬さん、人気者ですね!」


 朝倉さんまで笑い出した。


「朝倉くんまで……」


 一ノ瀬さんは苦笑しながらも、どこか楽しそうだった。


「よーし!」


 舞ちゃんが手を叩く。


「全員集合したし、行きますか!」


「おー!」


 結衣と爽太くんの声が重なった。


     *


 動物園に入ると、結衣は目を輝かせた。


「わああ!」


 広い園内。


 あちこちから聞こえる子どもたちの声。


 遠くには、大きな動物の姿も見える。


「ママ! はやく!」


「ふふっ、そんなに急がなくても動物さんは逃げないよ」


「でも、はやくみたい!」


「結衣ちゃん、まずはどこ行く?」


 朝倉さんが園内マップを広げた。


「きりん!」


「やっぱりキリンかあ」


「うん!」


「じゃあ、キリンさんから行こう!」


「やったー!」


「えー! ライオンはー?」


 爽太くんが不満そうに口を尖らせる。


「ライオンもあとで行こうね」


 舞ちゃんが頭を撫でる。


「ほんと?」


「ほんとほんと」


「じゃあいい!」


 ……ふふっ。


 なんだか、もう賑やか。


     *


「わああ! おっきい!」


 キリンの前に着いた途端、結衣が歓声を上げた。


 長い首をゆっくり動かしながら、キリンが葉っぱを食べている。


「つーくん! みて!」


「見てるよー! すごいねえ」


「くび、ながーい!」


「結衣ちゃん何人分くらいあるかな?」


「えーっと……」


 結衣は指を折りながら考え始めた。


「いち、に、さん……」


「十人くらいかな?」


「そんなに!?」


「どうだろうねえ」


 二人で笑い合う。


 私は少し離れたところから、その様子を眺めていた。


 朝倉さんは、結衣と話すとき、いつも目線を合わせてくれる。


 結衣が何を話しても、ちゃんと聞いてくれる。


 それが、なんだか嬉しい。


「星莉奈さん?」


「えっ?」


 隣にいた舞ちゃんが、にやっと笑った。


「何見てるんですか?」


「えっ、結衣だけど?」


「ふーん?」


「……何?」


「べっつにー?」


 ……もう。


 その顔、絶対何か考えてる。


「舞ちゃん」


「はいはい、何も言いませーん」


 そう言いながら、舞ちゃんは楽しそうに笑っていた。


     *


「おじちゃん!」


「ん?」


「ライオンってつよい?」


 爽太くんが一ノ瀬さんの手を引っ張った。


「そうだね。強いと思うよ」


「おじちゃんより?」


「……うん。たぶん、僕よりずっと強いね」


「じゃあ、つーくんは?」


「朝倉くん?」


 一ノ瀬さんが朝倉さんを見る。


「朝倉くんは、どうだろう?」


「いやいや、俺もライオンには勝てませんよ!」


「えー!」


 爽太くんが大げさに驚く。


「じゃあ、だれがかてるの?」


「うーん……」


 朝倉さんが真剣な顔で考え込んだ。


「……カバとか?」


「カバ!?」


「カバって、実はすごく強いんだよ」


「えええ!」


 爽太くんの目が輝く。


「じゃあカバみる!」


「ライオンはいいの?」


「カバ!」


 あまりにもあっさり意見を変えるものだから、みんなで笑ってしまった。


「爽太、忙しいねえ」


 舞ちゃんが笑う。


「一ノ瀬さん、付き合ってあげてくださいね」


「もちろんです」


 一ノ瀬さんは穏やかに頷いた。


「じゃあ爽太くん、カバを探しに行こうか」


「おー!」


 爽太くんが元気よく手を上げる。


 その姿を見ながら、朝倉さんがぽつりと言った。


「一ノ瀬さん、いい人ですねえ」


「……そうですね」


 私も頷いた。


 一ノ瀬さんは、いつも優しい。


 爽太くんにも、結衣にも。


 誰に対しても、丁寧に接してくれる。


 ……本当に、素敵な人だと思う。


 でも。


 ふと隣を見ると、朝倉さんが結衣に呼ばれていた。


「つーくん! こっち!」


「はいはい、今行くよー!」


 その声に、また笑みがこぼれる。


 ……あれ。


 私、今日何回笑ってるんだろう。


     *


 お昼。


 みんなで木陰のベンチに座って、お弁当を広げた。


「わあ! おいしそう!」


 朝倉さんが嬉しそうに声を上げる。


「橘さん、これ作ったんですか?」


「はい。結衣が朝から張り切っていたので、ちょっと頑張っちゃいました」


「すごいですねえ!」


「いえ、そんな……」


 そんなふうに褒められると、少し照れてしまう。


「つーくん!」


「ん?」


「これ、ママがつくったたまごやき!」


「おっ!」


「おいしいよ!」


「じゃあ、いただこうかな」


 朝倉さんが卵焼きを口に運ぶ。


「……うまっ!」


「ほんと!?」


 思わず声が出てしまった。


「はい! すごく美味しいです!」


「……よかった」


 なんだか、ほっとした。


 ……あれ?


 別に、朝倉さんのために作ったわけじゃないのに。


 どうしてこんなに嬉しいんだろう。


「星莉奈さん、顔ゆるんでますよ」


「……っ!」


 舞ちゃんが小声で囁く。


「もう、舞ちゃん!」


「あははっ、ごめんなさい!」


 私は慌ててお茶を飲んだ。


     *


 食事のあと、子どもたちは近くの広場で遊び始めた。


 舞ちゃんが二人についていき、朝倉さんも一緒に遊んでいる。


「元気ですね、みんな」


 隣から声がした。


 一ノ瀬さんだった。


「ふふっ、そうですね」


「朝倉くんも、すっかり子どもたちの仲間ですね」


「そうなんです。結衣も朝倉さんが大好きで」


「……そうみたいですね」


 一ノ瀬さんが穏やかに笑う。


 しばらく、二人で広場を眺めていた。


「橘さん」


「はい?」


「今日は誘っていただいて、ありがとうございました」


「いえ、こちらこそ。来てくださって嬉しいです」


「僕も、こういう休日は久しぶりで」


「そうなんですね」


「ええ。いつも仕事ばかりですから」


 少し照れたように笑う一ノ瀬さん。


「……また、こうして皆さんと出かけられたら嬉しいです」


「ふふっ、ぜひ!」


 そう答えると、一ノ瀬さんは嬉しそうに微笑んだ。


 そのとき。


「ママー!」


 結衣の声がした。


「みてみて!」


 朝倉さんと手をつないで、こちらへ歩いてくる。


「どうしたの?」


「つーくんと、おはなみつけた!」


 小さな手には、黄色い花。


「わあ、かわいいね」


「ママにあげる!」


「ありがとう、結衣」


 受け取ると、朝倉さんが笑った。


「結衣ちゃん、橘さんにあげたいって」


「そうだったんですね」


「うん! ママ、よろこぶかなって!」


「もちろん。すごく嬉しいよ」


 結衣の頭を撫でる。


 顔を上げると、朝倉さんと目が合った。


「よかったね、結衣ちゃん」


「うん!」


 その笑顔が、妙に眩しく見えた。


     *


 午後は、ゾウを見に行った。


「おっきーい!」


 結衣が柵の向こうを指さす。


「つーくん! おはなながい!」


「ほんとだねえ!」


「おみず、のんでる!」


「すごいね!」


 二人の会話を聞きながら、私は隣を歩く。


 ふと、朝倉さんがこちらを見た。


「橘さん、疲れてません?」


「えっ?」


「結構歩いてるから、大丈夫かなって」


「ふふっ、大丈夫ですよ」


「ならよかったです」


 何気ない気遣い。


 きっと、朝倉さんにとっては当たり前のことなんだと思う。


 でも。


 そういうところが、私は……。


「……?」


「橘さん?」


「は、はい!」


「本当に大丈夫ですか?」


「だ、大丈夫です!」


 ……もう。


 どうして最近、こんなに落ち着かないんだろう。


     *


「ママー! つーくん!」


 結衣が私たちを呼んだ。


「いっしょにしゃしんとろ!」


「写真?」


「うん!」


 結衣は嬉しそうに頷いた。


「きりんさんのとこで!」


「ふふっ、いいよ」


 朝倉さんも笑った。


「じゃあ、撮ろうか!」


「私、撮りますよ!」


 舞ちゃんがスマートフォンを取り出す。


「ほらほら、三人並んで!」


「えっ、三人?」


 思わず聞き返す。


「そうそう! 星莉奈さんと結衣ちゃんと朝倉さん!」


「ママ! こっち!」


 結衣が私の手を引っ張る。


 気づけば、結衣を真ん中にして、朝倉さんと並んでいた。


「じゃあ、撮るよー!」


 舞ちゃんがスマートフォンを構える。


「はい、チーズ!」


 カシャッ。


「もう一枚!」


 カシャッ。


「はい、撮れた!」


「みせてー!」


 結衣が舞ちゃんのところへ駆け寄る。


「わあ! ママとつーくん!」


「ふふっ、よかったね」


 私も画面を覗き込んだ。


 そこには、笑顔の三人が写っていた。


 真ん中で嬉しそうに笑う結衣。


 その隣で、少し照れたように笑う朝倉さん。


 そして、私。


 ……あ。


 なんだか、この写真。


 結衣が描いてくれた、あの絵みたい。


 動物園に行く前の夜。


 結衣が描いた、三人で手をつないでいる絵。


 あのときは、ただの絵なのに妙に恥ずかしくなってしまった。


 でも。


 こうして写真になってみると……。


「橘さん?」


「……えっ?」


 朝倉さんが隣から覗き込んでいた。


「いい写真ですね」


「……はい」


 私は小さく頷いた。


「すごく、いい写真です」


 朝倉さんが嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、胸の奥がじんわりと温かくなる。


     *


「ねえねえ! つぎどこいく?」


 結衣が元気よく尋ねた。


「そうだねえ」


 朝倉さんが園内マップを広げる。


「まだ見てない動物、結構いるね」


「ほんと!?」


「うん。ほら、こっちにも」


「わあ!」


 結衣が目を輝かせる。


「爽太はどうする?」


 舞ちゃんが尋ねる。


「ぼく、もういっかいカバ!」


「えー! またカバ?」


「カバつよいもん!」


「あははっ、よっぽど気に入ったんだね」


 一ノ瀬さんが笑う。


「じゃあ、もう少しだけ回りましょうか」


「そうですね」


 私も頷いた。


 まだ、帰るには少し早い。


 せっかくみんなで来たんだから、もう少し楽しみたい。


「橘さん」


「はい?」


 朝倉さんが隣に並んだ。


「今日は、本当に楽しいですね」


「……はい」


 私は微笑んだ。


「私も、すごく楽しいです」


 朝倉さんも笑ってくれた。


 少し前では、結衣と爽太くんが次に見る動物のことで盛り上がっている。


 舞ちゃんが二人をなだめて、一ノ瀬さんが楽しそうに笑っている。


 いつもリアンで顔を合わせているみんな。


 でも今日は、いつもとは違う場所で、同じ時間を過ごしている。


 ……不思議だな。


 リアンで朝倉さんを待つ時間も好きだけど。


 こうして隣を歩く時間は、もっと好きかもしれない。


「……橘さん?」


「はい?」


「行きましょうか」


「……はい!」


 私は笑って頷いた。


 少し先を歩いていた結衣が振り返る。


「ママー! つーくん! はやくー!」


「今行くよー!」


 朝倉さんが手を振る。


 私はその隣で、同じように笑った。


 今日という日が、もう少しだけ長く続けばいい。


 そんなことを思いながら。


 私は朝倉さんと並んで、ゆっくり歩き出した。


 大好きな人たちと見る景色は、いつもより少しだけ、鮮やかに見えた。

第12話をお読みいただき、ありがとうございます!


今回は、リアンを飛び出して、六人で動物園へ!


結衣と爽太の無邪気な姿や、相変わらず子どもたちに振り回される悠人など、いつもとは少し違う賑やかな時間をお届けしました。


そして、いつもと違うといえば……星莉奈の私服姿に、思わず見惚れてしまった翼。


お互いに少し照れてしまう二人の姿も、楽しんでいただけたでしょうか。


前回、結衣が描いた三人の絵が、今回は三人の写真になりました。


何気ない一枚の写真も、いつか振り返ったときには、かけがえのない思い出になるのかもしれません。


少しずつ変わっていく二人の距離を、これからも温かく見守っていただけたら嬉しいです。

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