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第13話 その手が届くまで

「つぎはライオン!」


「えー! きりんさんがいい!」


「キリンはもう見たでしょ!」


「でも、もういっかいみたいもん!」


 結衣と爽太くんの元気な声が、園内に響いていた。


「ふふっ、二人とも元気ですね」


「ほんとですねえ。俺、そろそろ体力で負けそうです」


 隣を歩く朝倉さんが、冗談めかして笑う。


「朝倉さん、さっきまで一緒に走り回ってたじゃないですか」


「いやあ、子どもの体力って底なしですね」


「ふふっ、そうですね」


 思わず笑ってしまった。


 お昼を食べて、ゾウを見て、みんなで写真も撮った。


 気づけば、もうずいぶん長い時間を動物園で過ごしている。


 それなのに、結衣も爽太くんも、まだまだ遊び足りないみたい。


「おじちゃん!」


「ん?」


 爽太くんが一ノ瀬さんを振り返る。


「ライオンとカバ、どっちがつよい?」


「うーん……難しい質問だね」


「カバだよね!」


「もう答えが決まってるじゃないか」


 一ノ瀬さんが苦笑する。


「あははっ! 爽太、すっかりカバが好きになっちゃいましたね」


 舞ちゃんが楽しそうに笑った。


「だってカバ、つよいもん!」


「はいはい。わかったから、ちゃんと前見て歩きなさい」


「はーい!」


 ……ふふっ。


 本当に、賑やか。


 少し前まで、動物園にこんな大人数で来るなんて想像もしていなかった。


 結衣と二人で過ごす休日も、もちろん大好き。


 でも、今日は少し違う。


 結衣の隣には、朝倉さんがいる。


 その少し後ろには、舞ちゃんと爽太くん。


 一ノ瀬さんも、子どもたちの話を楽しそうに聞いている。


 みんなが笑っている。


 ただ、それだけのことが。


 どうしてこんなに嬉しいんだろう。


「橘さん?」


「えっ?」


 朝倉さんが私の顔を覗き込んだ。


「どうかしました?」


「いえ、何でもないです」


「そうですか?」


「はい。ただ……」


 私は少しだけ笑った。


「今日、来てよかったなって思って」


 朝倉さんは一瞬目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。


「俺もです」


「……はい」


「また、みんなで来たいですね」


 何気ない一言。


 きっと、朝倉さんは深い意味なんてなく言ったんだと思う。


 でも。


「……そうですね」


 私は頷いた。


「また、来たいです」


 その約束が、なんだかとても嬉しかった。


     *


「ママ!」


「ん?」


 結衣が私の手を握った。


「つぎ、なにがいるかな?」


「何がいるだろうね」


「ライオン!」


 すかさず爽太くんが答える。


「爽太、そればっかりじゃない」


 舞ちゃんが笑う。


「だってー!」


「ほら、地図見てみようか」


 朝倉さんが園内マップを広げた。


「あっちにはシマウマもいるみたいだね」


「しまうま!」


 結衣の目が輝く。


「しましまの?」


「そうそう。しましまの」


「みたい!」


「じゃあ、そっちに行ってみようか」


「うん!」


 結衣が嬉しそうに頷く。


 私はその小さな手を、きゅっと握り直した。


「結衣、ちゃんと手をつないで歩こうね」


「はーい!」


 元気な返事。


 いつもどおりの、何でもないやり取り。


 朝倉さんは少し先で、爽太くんと何かを話している。


 一ノ瀬さんと舞ちゃんも、笑いながらその後ろを歩いていた。


 私は結衣の歩幅に合わせて、ゆっくり歩く。


 午後の日差しが、木々の隙間から差し込んでいた。


 風が吹くと、葉っぱがさらさらと揺れる。


 ……気持ちいいな。


 そんなことを思った、そのときだった。


「あっ!」


 結衣が声を上げた。


「どうしたの?」


「ママ! あっちにもどうぶついるよ!」


 結衣が少し先を指さした。


 そのまま、私の手から小さな指がするりと抜ける。


「あっ、結衣!」


 結衣は嬉しそうに駆け出していた。


「結衣! 走っちゃだめ!」


 慌てて追いかけようとする。


 ほんの少し先。


 数歩走れば、追いつけるはずだった。


 そのとき。


「危ないっ!!」


 突然、大きな声が響いた。


「……え?」


 顔を上げる。


 少し先の緩やかな坂道。


 そこに停められていた、屋根付きの移動販売カート。


 そのカートが、動いていた。


 誰も押していないのに。


 ゆっくりと。


 けれど、確かに。


「……?」


 一瞬、何が起きているのかわからなかった。


 カートが坂道を下ってくる。


 だんだんと、速く。


「止まれ! 危ない!!」


 スタッフらしき人が叫んでいる。


 周りの人たちが、慌てて道を空け始めた。


 そして。


 私は気づいてしまった。


 カートの進む先に。


 結衣がいる。


「……っ!」


 息が止まった。


「結衣っ!!」


 叫んだ。


 結衣が振り返る。


 でも、まだ状況がわかっていないみたいだった。


 小さな身体が、その場で立ち止まる。


 カートが迫る。


「結衣!! こっちに来て!!」


 私は走った。


 必死に手を伸ばした。


 あと少し。


 あと少しなのに。


 届かない。


 どうして。


 どうして、こんなに遠いの。


 結衣が目の前にいるのに。


 私の大切な、大切な娘が。


「……いや……」


 だめ。


 お願い。


 誰か。


 誰か、結衣を――。


 私は、ぎゅっと目を閉じた。


 見たくなかった。


 あの子が傷つく瞬間なんて。


 絶対に。


 ――ドンッ!!


 鈍い音が響いた。


 何かが倒れる音。


 誰かの悲鳴。


 そして。


「う……うわあああん!!」


 結衣の泣き声。


「……っ!」


 恐る恐る、目を開けた。


 そこには。


「……え?」


 地面に倒れている、朝倉さんがいた。


 その腕の中に。


 結衣がいた。


「……つーくん……っ!」


 結衣は泣いていた。


 朝倉さんの胸に顔を埋めて、声を上げて泣いていた。


 朝倉さんは、そんな結衣を両腕で包み込むように抱きしめていた。


 まるで。


 何かから守るように。


「……朝倉、さん……?」


 私は駆け出した。


     *


「朝倉さんっ!!」


 その場に膝をついた。


「結衣!」


「ママぁ……!」


 結衣が泣きながら顔を上げる。


 私は慌てて、その身体に触れた。


「結衣、大丈夫!? 痛いところは!?」


「うっ……ひっく……」


「結衣!」


「……こわかったぁ……!」


 泣きじゃくる結衣。


 でも、目立った怪我はない。


 手も、足も、ちゃんと動いている。


「……よかった……」


 思わず、そう呟いた。


 そのときだった。


 視界の端に、赤いものが見えた。


「……え?」


 朝倉さんの頭。


 髪の間から、赤いものが流れていた。


 血。


 朝倉さんの頭から、血が流れている。


 地面にも、赤い染みが広がっていた。


「……あさ、くら……さん……?」


 声が震えた。


 朝倉さんは、目を閉じていた。


 動かない。


「……朝倉さん?」


 返事がない。


「朝倉さん……!」


 震える手で、その肩に触れた。


「朝倉さんっ!!」


 どうして。


 どうして、目を開けてくれないの。


 さっきまで。


 さっきまで、あんなに笑っていたのに。


「朝倉さん! お願い、返事してください!」


 何度も名前を呼んだ。


 でも、朝倉さんは動かない。


「……いや……」


 喉の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


「いや……朝倉さん……!」


 そのとき。


「……たちばな、さん……」


「……っ!」


 かすかな声が聞こえた。


「朝倉さん!?」


 朝倉さんの目が、ほんの少しだけ開いた。


「朝倉さん! わかりますか!? 私です!」


 朝倉さんの唇が、ゆっくり動いた。


「……結衣、ちゃん……」


「……え?」


「……結衣ちゃんは……無事ですか……?」


 胸が、ぎゅっと痛んだ。


 こんなに血を流しているのに。


 こんなに苦しそうなのに。


 自分のことより先に。


 結衣のことを。


「……はい!」


 涙がこぼれた。


「結衣は無事です! 大丈夫です!」


 私は必死に頷いた。


「朝倉さんが……朝倉さんが守ってくれたから……!」


 朝倉さんの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……よかった……」


 その一言を最後に。


 朝倉さんの目が、ゆっくり閉じられた。


「……え?」


 さっきまで、かすかに動いていた唇が止まる。


「……朝倉さん?」


 返事がない。


「朝倉さん……?」


 私は、その手に触れた。


「ねえ……朝倉さん……?」


 何も答えてくれない。


「……いや……」


 嫌だ。


 そんなの、嫌だ。


「朝倉さんっ!!」


 声が裏返った。


「お願い! 目を開けてください!!」


 さっき、目を開けてくれたじゃない。


 声も聞こえたじゃない。


 結衣のこと、心配してくれたじゃない。


「朝倉さん!!」


 どうして。


 どうして、もう一度呼んでくれないの。


     *


「星莉奈さん!」


 誰かが私を呼んだ。


 舞ちゃんだった。


 泣きじゃくる結衣と、怯えた顔の爽太くんを両腕に抱き寄せている。


「星莉奈さん! 結衣ちゃんたちは私が見ています!」


「……まい、ちゃん……」


「大丈夫です! だから、朝倉さんのそばにいてあげてください!」


 舞ちゃんの声も、震えていた。


 それでも、子どもたちをしっかり抱きしめていた。


「ママぁ……!」


 結衣が泣いている。


 いつもなら、すぐに抱きしめてあげるのに。


 今は。


 今は、身体が動かなかった。


「救急車をお願いします!」


 一ノ瀬さんの声が聞こえた。


「男性が頭部を負傷しています。意識がありません!」


 電話をしながら、近くのスタッフに声をかけている。


「救急車が到着したら、こちらへ誘導してください。カートがまた動かないよう、安全も確認してください」


「わ、わかりました!」


「周囲の方は少し離れてください! 救急隊が通れる場所を空けてください!」


 いつもの穏やかな声とは違う。


 はっきりとした、落ち着いた声。


 一ノ瀬さんは、必要なことを一つずつ判断していた。


 でも。


 私には、ほとんど聞こえていなかった。


「……朝倉さん……」


 私は、朝倉さんの手を握った。


 温かかった。


 ちゃんと、温かかった。


「……お願い……」


 涙が、ぽたぽたと落ちる。


「朝倉さん……目を開けてください……」


 返事はない。


「お願い……」


 声が震える。


「私……まだ……」


 まだ。


 何も、伝えていない。


 今日、楽しかったこと。


 一緒に来られて嬉しかったこと。


 私の服を褒めてもらえて、すごく嬉しかったこと。


 また一緒に出かけたいって、思っていたこと。


 それから。


 それから……。


「……っ!」


 胸が苦しくなった。


 どうして。


 どうして、こんなときになって。


 こんなにたくさん、伝えたいことが浮かぶの。


「……置いていかないで……」


 気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。


「お願い……朝倉さん……!」


 何度も、何度も名前を呼んだ。


 でも。


 朝倉さんは、もう答えてくれなかった。


     *


 遠くから、サイレンの音が聞こえた。


 救急車。


 誰かが、そう言った。


 白い服を着た人たちが駆け寄ってくる。


「負傷された方はこちらですか!」


「はい! 頭部を強く打っています。先ほど一度だけ意識が戻りましたが、すぐに反応がなくなりました!」


 一ノ瀬さんが説明している。


「わかりました。確認します」


 救急隊の人が、朝倉さんのそばに膝をついた。


 呼びかける声。


 何かを確認する声。


 次々と交わされる言葉。


 私はただ、朝倉さんの手を握っていた。


「……朝倉さん……」


「すみません。処置をしますので、少し離れていただけますか」


「……え?」


「大丈夫です。私たちが対応します」


 優しい声だった。


 でも。


 手を離したくなかった。


 離したら。


 もう二度と、握れなくなるような気がして。


「……いや……」


 思わず、首を振った。


「朝倉さん……」


「橘さん」


 静かな声がした。


 顔を上げると、一ノ瀬さんがいた。


「……一ノ瀬、さん……」


「大丈夫です。救急隊の方に任せましょう」


「でも……朝倉さんが……」


 言葉にならなかった。


 涙ばかりがこぼれる。


 一ノ瀬さんは、少しだけ表情を曇らせた。


 それから、ゆっくりと言った。


「朝倉くんのためにも、今は処置をしてもらいましょう」


「……っ」


 私は、朝倉さんの手を見つめた。


 指先が震えている。


 離したくない。


 でも。


 朝倉さんに、助かってほしい。


 私は、ゆっくりと手を離した。


     *


 朝倉さんが、担架に乗せられていく。


 その光景を、私はただ見つめていた。


「……朝倉さん……」


「橘さん」


 一ノ瀬さんが、もう一度声をかけてくれた。


「救急車に、一緒に乗ってあげてください」


「……え?」


「結衣ちゃんたちは、舞さんと僕で見ています」


 振り返る。


 少し離れたところで、舞ちゃんが結衣と爽太くんを抱きしめていた。


 結衣はまだ泣いている。


「……結衣……」


 私が名前を呼ぶと、結衣が顔を上げた。


「ママぁ……」


 胸が締めつけられた。


 そばに行きたい。


 抱きしめてあげたい。


 でも。


「星莉奈さん」


 舞ちゃんが、まっすぐ私を見た。


「結衣ちゃんは大丈夫です。私がちゃんと見ています」


「……舞ちゃん……」


「だから、朝倉さんのところに行ってください」


 舞ちゃんの目にも、涙が浮かんでいた。


 それでも、笑おうとしてくれていた。


「……ありがとう……」


 声が震えた。


「本当に……ありがとう……」


 私は結衣のそばにしゃがんだ。


「結衣……」


「ママ……つーくんは……?」


 小さな声だった。


「つーくん、どうしたの……?」


「……っ」


 答えようとして、言葉が詰まった。


 私にも、わからなかった。


 朝倉さんが、どうなってしまうのか。


 これから、どうなるのか。


 何も。


「……朝倉さんね、お医者さんのところに行くの」


「……おいしゃさん?」


「うん。ママも一緒に行ってくるね」


 結衣の目から、また涙がこぼれた。


「……つーくん、だいじょうぶ……?」


 私は、その小さな身体を抱きしめた。


「……うん……」


 大丈夫。


 そう言いたかった。


 でも、声が震えてしまった。


「……ママも、そう信じてる」


 結衣が、ぎゅっと私の服を握った。


 私はその背中を、何度も撫でた。


「舞ちゃんの言うこと、ちゃんと聞いて待っててね」


「……うん……」


「いい子だね」


 結衣の額に、そっと口づける。


 そして、ゆっくり立ち上がった。


     *


「付き添いの方、乗られますか?」


 救急隊の人が尋ねた。


「……はい」


 私は頷いた。


「お願いします……」


 救急車に乗り込む。


 そこには、担架に横たわる朝倉さんがいた。


 目を閉じたまま。


 動かないまま。


 ついさっきまで。


 隣で笑っていた人。


 結衣と一緒に、動物を見ていた人。


 私の服を褒めてくれた人。


 また、みんなで来たいですねって。


 そう言ってくれた人。


「……朝倉さん……」


 救急隊の人が処置を続けている。


 私は邪魔にならないように、ただその姿を見つめていた。


 救急車の扉が閉まる。


 外の声が、遠くなった。


 やがて、車がゆっくり動き始める。


 窓の向こうを、景色が流れていく。


 ほんの少し前まで、あんなに楽しかったのに。


 あんなに、幸せだったのに。


 どうして。


 どうして、こんなことになってしまったんだろう。


「……朝倉さん……」


 涙が、またこぼれた。


 私は膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめた。


 あのとき。


 結衣の手を、離さなければ。


 もっと早く、追いついていれば。


 私が、ちゃんと守れていたら。


 朝倉さんが、こんな目に遭うこともなかったのに。


「……ごめんなさい……」


 小さく呟いた。


「……ごめんなさい……」


 何度謝っても、足りない気がした。


 でも。


 今は、そんなことより。


 ただ。


 ただ、もう一度。


 朝倉さんの声が聞きたかった。


 いつものように、笑ってほしかった。


 私の名前を、呼んでほしかった。


「……お願い……」


 涙で滲んだ視界の向こうに、朝倉さんがいる。


 私は、祈るように目を閉じた。


「……もう一度、笑ってください……」


 返事はなかった。


 それでも私は、何度も心の中で名前を呼び続けた。


 朝倉さん。


 朝倉さん。


 お願いだから。


 まだ、私のそばにいてください。

第13話をお読みいただき、ありがとうございます。


前回までの楽しい動物園での時間から一転し、今回は大きな出来事が起こりました。


結衣を守るため、迷わず身体を動かした翼。


そして、結衣の無事を知った翼が口にした「……よかった……」という一言。


自分のことよりも、誰かのことを大切にできる。そんな翼の優しさを感じていただけたら嬉しいです。


一方で、目の前で大切な人が倒れ、必死に名前を呼び続ける星莉奈。


いつも当たり前のようにそばにいてくれる人が、どれほど大切な存在なのか。


その気持ちに、星莉奈自身も少しずつ向き合い始めています。


翼は無事に目を覚ますことができるのか。


そして、星莉奈の想いはどこへ向かうのか。


次回も、二人を温かく見守っていただけたら嬉しいです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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