第14話 あふれた想い
病院の廊下は、驚くほど静かだった。
白い壁。
白い天井。
どこか遠くから聞こえてくる、誰かの足音。
そのすべてが、現実じゃないみたいだった。
「……朝倉さん……」
小さく名前を呼んでみる。
もちろん、返事はない。
朝倉さんは今、この扉の向こうにいる。
救急車で運ばれてきてから、どれくらい経ったんだろう。
十分?
三十分?
それとも、もっと?
時計を見ても、時間が頭に入ってこなかった。
私は膝の上で、ぎゅっと両手を握りしめた。
まだ、覚えている。
朝倉さんの手の温もり。
結衣を抱きしめていた腕。
そして。
『……よかった……』
あの声。
自分があんなに血を流しているのに。
結衣が無事だと知って、安心したように笑った。
そのあと、朝倉さんは目を閉じた。
何度呼んでも、もう返事をしてくれなかった。
「……っ」
思い出しただけで、胸が苦しくなる。
もしも。
もしも、あのまま目を覚まさなかったら。
「……いや……」
私は小さく首を振った。
考えちゃだめ。
そんなこと、考えたくない。
でも。
目を閉じると、あの光景が浮かんでしまう。
地面に倒れた朝倉さん。
頭から流れる血。
そして、動かなくなった身体。
「……お願い……」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
「……朝倉さんを、助けて……」
*
どれくらい待っただろう。
ようやく、扉が開いた。
「朝倉翼さんの付き添いの方ですか?」
「……はい!」
私は勢いよく立ち上がった。
「朝倉さんは!? 朝倉さんは大丈夫なんですか!?」
白衣を着た先生は、落ち着いた声で答えた。
「頭部に強い衝撃を受けています。検査を行いましたが、現時点では緊急の手術が必要な状態ではありません」
「……え……」
「ただ、意識が戻っていませんので、引き続き慎重に経過を見ていく必要があります」
「……そう、ですか……」
緊急の手術は必要ない。
その言葉に、少しだけ安心した。
でも。
「……目は、覚めるんですか……?」
先生は私の顔を見た。
「今の段階で、いつ意識が戻るかを断言することはできません。状態の変化に注意しながら見守っていきます」
「……はい……」
私は、ゆっくり頷いた。
まだ、安心していいわけじゃない。
朝倉さんは、まだ目を覚ましていないんだから。
「短時間でしたら、そばにいていただけますよ」
「……本当ですか?」
「はい。ただし、状態を確認するため、途中で席を外していただくこともあります」
「……ありがとうございます……!」
頭を下げた。
もう一度、朝倉さんに会える。
それだけで、少しだけ息ができる気がした。
*
案内された病室には、静かな機械の音が響いていた。
ベッドの上に、朝倉さんがいる。
「……朝倉さん……」
頭には白い包帯が巻かれていた。
いつもみたいに笑っていない。
目を閉じたまま、静かに横になっている。
その姿を見た瞬間、また涙がこぼれそうになった。
私はベッドのそばに置かれた椅子に座った。
「……朝倉さん……」
返事はない。
「……結衣、無事ですよ……」
声が震えた。
「朝倉さんが守ってくれたから……怪我もしてなくて……」
そこまで言って、言葉が詰まった。
「……だから……」
お願い。
もう、心配しなくていいから。
「……今度は、自分のことを心配してくださいよ……」
ぽたり。
涙が膝の上に落ちた。
「……ばか……」
小さく呟いた。
朝倉さんに、こんなことを言うのは初めてだった。
でも。
「……本当に……ばかです……」
どうして、あんな無茶をしたんですか。
どうして、自分のことを後回しにするんですか。
どうして。
どうして、そんなに優しいんですか。
私はそっと、朝倉さんの手に触れた。
温かい。
ちゃんと、温かい。
そのことが嬉しくて、また涙がこぼれた。
*
ふいに、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、舞ちゃんからのメッセージが届いていた。
『星莉奈さん、朝倉さんの様子はどうですか?』
私は少し迷ってから、文字を打った。
『検査は終わったよ。今は病室にいるけど、まだ目を覚ましてなくて……』
すぐに既読の表示がついた。
『そうなんですね……』
『星莉奈さんも心配だと思いますけど、無理しないでくださいね』
続けて、もう一通。
『結衣ちゃんと爽太は、うちにいます!』
『二人ともご飯を食べました。今日はこのまま、うちに泊まってもらいますね』
その文章を読んだ瞬間、胸がじんわりと温かくなった。
結衣。
そうだ。
結衣も、怖かったよね。
つーくんが目の前で倒れて。
きっと、まだ不安でいっぱいだと思う。
『結衣は大丈夫?』
そう送ると、舞ちゃんからすぐに返事が来た。
『さっきまで泣いてましたけど、今は爽太と一緒にいます』
『星莉奈さんのことも心配してましたよ』
『でも、私がちゃんと見てますから!』
私はスマートフォンを握りしめた。
「……舞ちゃん……」
ありがとう。
本当に、ありがとう。
『ありがとう。結衣のこと、よろしくお願いします』
そう送るのが精いっぱいだった。
舞ちゃんから、可愛らしいスタンプが返ってきた。
いつもみたいな、明るいスタンプ。
それを見て、ほんの少しだけ笑えた。
……よかった。
結衣は、一人じゃない。
爽太くんも、舞ちゃんもいる。
だから。
今は、朝倉さんのそばにいよう。
私はスマートフォンをしまって、もう一度、朝倉さんの手を握った。
「……朝倉さん……」
眠っている横顔を見つめる。
「……結衣も、待ってますよ……」
そして。
心の中で、そっと付け加えた。
……私も。
*
窓の外が、少しずつ暗くなり始めていた。
病室の扉が、控えめにノックされた。
「……失礼します」
「……あ」
振り返ると、一ノ瀬さんが立っていた。
「一ノ瀬さん……」
「橘さん。朝倉くんの様子は……?」
「……まだ、目を覚ましてなくて……」
「……そうですか」
一ノ瀬さんは静かに頷いた。
「舞さんから、結衣ちゃんたちのことは聞きましたか?」
「はい。さっきメッセージが来ました」
「よかった。二人とも落ち着いているみたいですよ」
「……ありがとうございます」
私は頭を下げた。
「一ノ瀬さんも……今日は、本当にありがとうございました」
「いえ。僕は、できることをしただけです」
一ノ瀬さんは、いつものように穏やかに笑った。
でも。
その笑顔が、少しだけ疲れているように見えた。
「……一ノ瀬さんも、大丈夫ですか?」
「え?」
「今日は……大変だったから……」
一ノ瀬さんは一瞬驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「僕は大丈夫ですよ」
「……そうですか」
「それより、橘さんこそ。少しは休んでくださいね」
「……はい」
そう答えたけれど。
私は、朝倉さんの手を離せなかった。
指先を、そっと包み込む。
まだ、目を覚まさない朝倉さん。
その横顔を見つめていると、胸が苦しくなった。
「……朝倉さん……」
思わず、名前がこぼれた。
すると。
「……橘さん」
一ノ瀬さんに呼ばれて、私は顔を上げた。
「……はい?」
一ノ瀬さんは、私を見ていた。
何かを言おうとしているようだった。
けれど。
その視線が、ふと下がる。
私が握っている、朝倉さんの手へ。
そして、もう一度、私の顔へ。
「……一ノ瀬さん?」
「……いえ」
一ノ瀬さんは、静かに首を振った。
ほんの一瞬。
寂しそうな顔をしたように見えた。
でも、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「……朝倉くん、早く目を覚ましてくれるといいですね」
「……はい」
私は頷いた。
「……本当に……」
それ以上、言葉が出てこなかった。
一ノ瀬さんは、そんな私をしばらく見つめていた。
そして。
「……橘さん」
「はい」
「朝倉くんが目を覚ましたら、教えてください」
「……はい。もちろんです」
「……ありがとうございます」
そう言って、一ノ瀬さんは静かに立ち上がった。
「それじゃあ、僕はこれで」
「……もう、帰られるんですか?」
「ええ。舞さんのところにも寄って、子どもたちの様子を見てきます」
「……そうですか」
「橘さんは、朝倉くんのそばにいてあげてください」
その言葉が、なぜか胸に残った。
「……はい」
一ノ瀬さんは、最後に朝倉さんを見た。
「……朝倉くん」
小さく、名前を呼ぶ。
「……また、話そうね」
そして、私に微笑んだ。
「……それじゃあ」
「……一ノ瀬さん」
「はい?」
「……本当に、ありがとうございました」
一ノ瀬さんは少しだけ目を細めた。
「……どういたしまして」
病室の扉が、静かに閉まる。
私はしばらく、その扉を見つめていた。
最後に見た一ノ瀬さんの笑顔が、なぜか忘れられなかった。
……疲れていたのかな。
今日は、一ノ瀬さんだって怖かったはずだ。
それなのに、ずっと私たちを助けてくれた。
今度、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。
そう思って、私は朝倉さんへと向き直った。
*
夜になった。
窓の外には、街の明かりが灯っている。
病室は静かだった。
朝倉さんは、まだ眠っている。
「……朝倉さん……」
何度目かわからない名前を呼ぶ。
返事はない。
私は椅子に座ったまま、朝倉さんの顔を見つめていた。
……不思議。
つい最近まで。
朝倉さんは、リアンに来てくれるお客さんの一人だった。
いつも優しくて。
よく笑って。
結衣のことも、可愛がってくれて。
でも。
いつからだろう。
朝倉さんが来ると、嬉しくなるようになったのは。
扉が開くたび、つい姿を探すようになったのは。
朝倉さんと話せる時間が、楽しみになったのは。
『橘さん』
いつもの声が、頭の中に浮かぶ。
『今日もお疲れさまです』
何気ない言葉。
ただ、それだけなのに。
その声を聞くと、不思議と心が軽くなった。
結衣が「つーくん!」と駆け寄る姿を見るのも好きだった。
朝倉さんが、結衣と同じ目線で笑ってくれるのも。
結衣の話を、いつも真剣に聞いてくれるのも。
……全部。
全部、嬉しかった。
私はそっと目を閉じた。
今日の動物園。
朝倉さんは、私の服を褒めてくれた。
あのとき、すごく恥ずかしかった。
でも。
……嬉しかったな。
一緒にお弁当を食べた。
結衣と三人で、写真を撮った。
あの写真。
ちゃんと、撮れているかな。
朝倉さんは、どんな顔で写っているんだろう。
きっと。
いつものように、優しく笑っている。
『また、みんなで来たいですね』
朝倉さんの言葉が、胸によみがえった。
「……また……」
私は小さく呟いた。
「……行きたいです……」
動物園じゃなくてもいい。
どこだっていい。
リアンで、いつものようにお話しするだけでもいい。
結衣と一緒に、笑ってくれるだけでいい。
だから。
「……お願い……」
私は朝倉さんの手を、そっと握り直した。
「……もう一度……」
涙がこぼれた。
「……笑ってください……」
事故のあと。
私はずっと、怖かった。
朝倉さんがいなくなってしまうことが。
もう二度と会えなくなることが。
あの優しい声を、聞けなくなることが。
どうして、こんなに怖いんだろう。
どうして。
こんなにも。
朝倉さんのことばかり、考えてしまうんだろう。
答えは、きっと。
ずっと前から、私の中にあった。
でも。
今はまだ、その気持ちに名前をつけるのが怖かった。
*
どれくらい、そうしていただろう。
病室の時計が、小さな音を立てていた。
私は朝倉さんの手を握ったまま、うつむいていた。
そのとき。
……ぴくっ。
「……え?」
指先に、何かが触れた気がした。
私は顔を上げた。
「……朝倉さん?」
もう一度、手を見つめる。
すると。
朝倉さんの指が、ほんの少しだけ動いた。
「……っ!」
息を呑んだ。
「朝倉さん……!?」
顔を覗き込む。
閉じられていたまぶたが、かすかに震えていた。
「……朝倉さん!」
私は慌ててナースコールを押した。
「すみません! 朝倉さんが……!」
声が震える。
「朝倉さんが、動いたんです……!」
すぐに看護師さんが来て、朝倉さんの様子を確認してくれた。
私は少し離れて、その姿を見つめた。
お願い。
お願いだから。
もう一度。
もう一度だけ。
その目を開けて。
しばらくして、朝倉さんのまぶたがゆっくり持ち上がった。
「……っ!」
胸が、どくんと鳴った。
ぼんやりとした瞳が、天井を見つめる。
看護師さんが優しく声をかけ、朝倉さんは小さく反応した。
そのあと、先生も来て、いくつか確認をしていた。
私はただ、祈るように両手を握りしめていた。
……よかった。
目を開けてくれた。
でも。
まだ。
まだ、ちゃんと安心できない。
朝倉さんの声を、聞くまでは。
*
先生たちが状態を確認したあと、私は再びベッドのそばに座ることができた。
朝倉さんは、少し疲れたように目を閉じていた。
でも、さっきとは違う。
呼びかけると、ゆっくり目を開けてくれる。
「……朝倉さん……」
私は、そっと名前を呼んだ。
朝倉さんの視線が、ゆっくりこちらに向いた。
「……たちばな、さん……?」
「……っ!」
その声。
聞きたかった声。
何度も、何度も、心の中で思い浮かべていた声。
「……はい……!」
涙があふれた。
「……私です……!」
朝倉さんは、少しだけ不思議そうな顔をした。
「……どうして……泣いて……」
「……っ!」
私は首を振った。
違う。
違うんです。
泣きたくて、泣いてるんじゃない。
ただ。
「……よかった……」
声が震えた。
「……本当に……よかった……!」
涙が止まらなかった。
朝倉さんは、そんな私を見つめていた。
そして。
ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……橘さん……」
「……はい……」
「……そんなに泣かないでください……」
弱々しい声。
いつもより、ずっと小さな声。
それでも。
その笑顔は。
私が知っている、朝倉さんの笑顔だった。
「……っ!」
胸の奥で、何かがほどけた。
ずっと、怖かった。
もう会えないかもしれないって。
もう笑ってくれないかもしれないって。
もう、私の名前を呼んでくれないかもしれないって。
でも。
今。
目の前にいる。
朝倉さんが。
ちゃんと、ここにいる。
「……朝倉さん……」
私は、そっとその手を握った。
温かかった。
朝倉さんの手が、ほんの少しだけ握り返してくれた。
それだけで。
もう、だめだった。
「……っ……」
涙が、次から次へとこぼれる。
伝えたいことが、たくさんあった。
ありがとう。
結衣を守ってくれて、ありがとう。
ごめんなさい。
こんなに怖い思いをさせてしまって。
心配したんですよ。
本当に、本当に、心配したんです。
もう、無茶しないでください。
お願いだから。
……でも。
どの言葉も、うまく出てこなかった。
ただ。
朝倉さんが、私を見ている。
優しく。
いつものように。
それが。
どうしようもなく、嬉しかった。
私は、いつから。
この人の笑顔を、こんなに大切に思うようになったんだろう。
いつから。
この人が隣にいることを、こんなに幸せだと思うようになったんだろう。
結衣を助けてくれたからじゃない。
今日、命がけで守ってくれたからじゃない。
もっと前から。
ずっと、前から。
何気ない会話の中で。
優しい笑顔の中で。
一緒に過ごした、たくさんの時間の中で。
少しずつ。
少しずつ。
私の中に、積もっていたもの。
それが今。
胸の奥から、あふれそうになっていた。
「……橘さん……?」
朝倉さんが、私を呼んだ。
その声を聞いた瞬間。
もう、抑えられなかった。
伝えようと思ったわけじゃなかった。
今、言うつもりなんてなかった。
ただ。
もう一度、この人に会えたことが。
もう一度、この人の声を聞けたことが。
もう一度、この人が笑ってくれたことが。
嬉しくて。
嬉しくて。
どうしようもなく、嬉しくて。
気づけば。
涙と一緒に、言葉がこぼれていた。
「……好きです……」
第十四話、読んでくれてありがとうございます。大きな出来事のあとに残るのは、たぶん小さな「声」と「間」なんだと思います。うまく言えない気持ちや、ただ名前を呼ぶだけの時間も、ちゃんと物語の一部として書いていきたいです。次も、そっと見守ってもらえたら嬉しいです。




