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第8話 北極星の下で

今日は、いつもより店内が静かに感じる。


 夕方の混雑が落ち着いたリアンには、穏やかな音楽が流れていた。


 カウンターの中でグラスを拭きながら、私は窓際の席に目を向ける。


 そこには、いつものようにノートパソコンに向かう朝倉さんの姿があった。


 時々眉間にしわを寄せたり、何かを思いついたようにキーボードを叩き始めたり。


 かと思えば、突然手を止めて天井を見上げる。


 ……何を考えているんだろう。


 そんなことを思っていると、朝倉さんが大きく伸びをした。


「んんーっ……!」


 そして、机に突っ伏す。


「……終わらん」


 思わず笑ってしまった。


「朝倉さん、大丈夫ですか?」


「橘さん……俺、今日中に終わると思ってたんですけどね」


「はい」


「どうやら昨日の俺は、今日の俺を過大評価していたようです」


「ふふっ。そうなんですか?」


「昨日の俺に文句言いたいです」


「でも、もう少しで終わりそうなんですよね?」


「そうなんですよ。あとちょっとなんですけど、そのあとちょっとが長いんですよねぇ」


 朝倉さんは情けない声を出しながら、再びパソコンに向き直った。


 私は小さく笑って、グラスを棚に戻す。


 いつもどおりの光景。


 だけど、今日は少しだけ違う。


 普段なら、そろそろ結衣のことを考え始める時間だ。


 夕飯は何にしよう。


 お風呂に入ったら、今日はどの絵本を読もう。


 そんなことを考えながら時計を見るのが、私の日常だった。


 でも、今日は。


 結衣が祖母の家に泊まりに行っている。


 昨日から「おばあちゃんちにおとまりするの!」と大はしゃぎで、今朝もお気に入りのクロブタロウを抱えて、何度も荷物を確認していた。


 祖母からは、さっき写真が届いた。


 結衣が嬉しそうに夕飯を食べている写真だ。


 寂しくないと言えば嘘になるけれど、あんなに楽しそうな顔を見たら、こちらまで嬉しくなる。


 今夜は久しぶりに、時間を気にせず仕事ができそうだった。


*


 午後八時を少し過ぎた頃。


「……っしゃあ!」


 静かな店内に、朝倉さんの声が響いた。


「わっ」


「あっ、すみません!」


 慌てて口元を押さえる朝倉さん。


「終わったんですか?」


「終わりました! いやー、長かった……!」


「ふふっ。お疲れさまでした」


「ありがとうございます。いや、もう今日は帰って寝ます」


 そう言いながら、朝倉さんはパソコンを閉じた。


 私は時計を見る。


 ちょうど閉店の時間だ。


「朝倉さん、すみません。そろそろ閉店なので」


「あ、もうそんな時間ですか。ちょうどよかった」


 朝倉さんは手早く荷物をまとめ、空になったカップを持ってカウンターへやってきた。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


「橘さんも、今日は遅いんですね」


「はい。結衣が今日は祖母の家に泊まっているので、私も少し遅くまで仕事をしていたんです」


「お、結衣ちゃん、お泊まりですか」


「ええ。昨日からずっと楽しみにしていて」


「ははっ、想像できますね。クロブタロウも一緒ですか?」


「もちろんです。あの子がいないと眠れませんから」


「そりゃ大事だ」


 朝倉さんは笑った。


 結衣の話をするとき、この人はいつも楽しそうだ。


「じゃあ、今日は橘さんもゆっくりできるんですね」


「そうですね。帰ったら何をしようか、まだ決めてないんですけど」


「いいじゃないですか。たまには何もしない日があっても」


「ふふっ。そうかもしれませんね」


 朝倉さんは軽く手を振って、店の外へ出ていった。


 私は最後の片づけを済ませ、照明を落とす。


 戸締まりを確認して、店の外へ出た。


 秋の夜風が、頬をそっと撫でる。


「……あれ?」


 少し先に、見覚えのある後ろ姿があった。


 朝倉さんだ。


 街灯の下でスマートフォンを見ながら、何やら首を傾げている。


「朝倉さん?」


「ん? あ、橘さん」


「まだいらしたんですね」


「いやー、明日の予定を確認してたら、つい」


 朝倉さんはスマートフォンをポケットにしまった。


「橘さんも今から帰りですか?」


「はい。戸締まりも終わりましたので」


「そっか。じゃあ、途中まで一緒に帰ります?」


「ふふっ、そうですね」


 朝倉さんは私の歩調に合わせて歩き始めた。


 普段なら結衣と一緒に歩く道。


 今日は、朝倉さんと二人きりだった。


*


「いやー、それにしても今日は疲れました」


 隣で朝倉さんが肩を回している。


「そんなに大変なお仕事だったんですか?」


「いや、最初は簡単だと思ってたんですよ。でも、一か所直すと別のところがおかしくなって」


「それは大変ですね」


「もう途中から、パソコンに嫌われてるのかと思いました」


「ふふっ」


「でも、終わったから全部許します」


「よかったですね」


 朝倉さんの話は、聞いていて飽きない。


 難しそうな仕事の話でも、いつの間にか笑い話になってしまう。


 気づけば、私も何度も笑っていた。


 しばらく歩いたところで、ふと空を見上げる。


 昼間は雲が多かったのに、いつの間にかすっかり晴れていた。


 街灯の光が届かない空には、小さな星がいくつも瞬いている。


「……綺麗」


「ん?」


「星です。今日はよく見えますね」


「あ、本当だ」


 朝倉さんも足を緩め、空を見上げた。


「私、夜空を見るのが好きなんですよね」


「へえ、そうなんですか?」


「はい。小さい頃から好きで。名前に星が入っているからかもしれませんけど」


「ああ、なるほど」


 朝倉さんが小さく笑う。


「なんか、いいですね。自分の名前に好きなものが入ってるって」


「ふふっ。そうですね」


 私はもう一度、空を見上げた。


 こんなふうにゆっくり夜空を眺めるのは、いつ以来だろう。


 結衣と一緒に星を見たことは何度もある。


 けれど、こうして誰かと並んで歩きながら眺める夜空は、少し新鮮だった。


「朝倉さんは、好きな星ってありますか?」


「好きな星、ですか?」


「はい。星座でもいいですけど」


「うーん……」


 朝倉さんは少し考えるように空を見上げた。


 それから、ぽつりと答えた。


「俺は北極星かな」


「北極星?」


「はい」


「どうしてですか?」


 朝倉さんは夜空を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。


「あの星って、昔から道に迷った人たちの目印になってきたじゃないですか」


「そうですね」


「なんか、すごいなって思うんですよ。ずっとあそこにあるだけで、誰かの助けになってるって」


 その言葉に、私は少しだけ驚いた。


 朝倉さんは、照れくさそうに笑う。


「まあ、俺が遭難したことあるわけじゃないんですけどね」


「ふふっ」


「でも、人生も似たようなもんなのかなって」


「……人生、ですか?」


「はい。みんな、何かしら答えを探しながら生きてる気がするんですよ」


 朝倉さんは空を見上げたまま続けた。


「自分が何をしたいのかとか、何を大事にしたいのかとか。俺もまだ、よくわかってないことばっかりですけど」


 夜風が、二人の間を静かに通り抜ける。


「でも、これだけは譲れないってものが、一つでも見つかったら……それが自分にとっての北極星になるのかなって」


「自分にとっての、北極星……」


「はい。そういうのがあれば、迷ってもまた歩き出せる気がするんですよね」


 私は、隣に立つ朝倉さんを見た。


「それに……」


 朝倉さんは少し間を置いて、続けた。


「自分の大事なものをちゃんと大事にできたら、いつか誰かのことも笑顔にできるのかなって」


 その視線は、まだ夜空に向けられている。


 私は、そんな彼の横顔を見つめていた。


 いつもリアンで見せる、少しおどけた笑顔。


 結衣と一緒になって、子どもみたいにはしゃぐ姿。


 けれど今、星を見上げる彼の横顔は、いつもと少し違って見えた。


 静かで、真剣で。


 遠くの星を見つめる瞳には、普段の彼からは想像できないほど、まっすぐな光が宿っていた。


 ……こんな顔も、するんだ。


 そう思った瞬間、胸が小さく跳ねた。


「……って、あれ?」


 不意に朝倉さんがこちらを向いた。


 目が合う。


「橘さん?」


「っ! は、はい!」


「すみません。俺ばっかり喋っちゃいましたね」


「あ……いえ、そんなこと……」


「なんか星の話になると、つい語っちゃうんですよね。ははっ」


 いつもの、少し照れくさそうな笑顔。


 その顔を見て、私はなぜかほっとした。


 ……なのに。


 さっきの横顔が、頭から離れない。


「……素敵だと思います」


「え?」


「朝倉さんの、そういう考え方」


 朝倉さんは少し驚いた顔をして、それから照れくさそうに笑った。


「ありがとうございます。いやー、なんか恥ずかしいですね」


 私もつられて笑った。


 いつもの朝倉さんだ。


 冗談を言って、少しおどけて、周りを笑わせる人。


 だけど、さっき星を見上げていた横顔は、いつもと違っていた。


 静かで、真剣で。


 あんな表情をするなんて、知らなかった。


「……橘さん?」


「えっ?」


「どうかしました?」


「い、いえ! なんでもないです」


「そうですか?」


 不思議そうに首を傾げる朝倉さん。


 私は慌てて夜空に視線を戻した。


 ……どうしよう。


 さっきから、胸が落ち着かない。


*


 それから、私たちはまた歩き始めた。


 朝倉さんは何事もなかったように、旅先で見た星空の話をしてくれた。


 山の近くで見上げた夜空が、驚くほど綺麗だったこと。


 写真に撮ろうとしたのに、スマートフォンでは全然うまく撮れなかったこと。


「いやー、あれは悔しかったですね。実物はあんなに綺麗なのに、写真だとただの真っ黒な画面で」


「ふふっ。それは残念でしたね」


「しかも寒くて。星を見るのも体力がいるんだなって思いました」


「朝倉さんらしいですね」


「え、そうですか?」


「はい」


 笑いながら答えると、朝倉さんも笑った。


 やがて、道が二つに分かれる場所に着いた。


「あ、俺こっちなんで」


 朝倉さんが足を止めた。


「そうなんですね」


「はい。橘さんは?」


「私は、このまま真っすぐです」


「そっか。じゃあ、ここまでですね」


 ほんの少しだけ、名残惜しいような気がした。


 でも、それを口にする理由なんてない。


「今日はお疲れさまでした」


「橘さんも。遅くまでお疲れさまでした」


 朝倉さんはいつもの笑顔で手を振った。


「じゃあ、またリアンで!」


「はい。またお待ちしてますね」


 私も手を振り返す。


 朝倉さんは軽い足取りで、曲がり角の向こうへ歩いていった。


 その背中を見送ってから、私はゆっくりと歩き出した。


 夜風が少し冷たい。


 でも、不思議と嫌な寒さではなかった。


 ふと、さっきの言葉を思い出す。


『これだけは譲れないってものが、一つでも見つかったら……それが自分にとっての北極星になるのかなって』


 朝倉さんは、あんなことを考えていたんだ。


 いつも楽しそうで、自由で。


 どこか掴みどころのない人だと思っていた。


 でも、きっとそれだけじゃない。


 あの人の中にも、探しているものがあるんだろう。


 そして、思い浮かぶ。


 星空を見上げていた、あの横顔。


「……っ」


 私は思わず立ち止まった。


 どうしてだろう。


 思い出しただけなのに、また胸が落ち着かなくなる。


「……変なの」

第8話「北極星の下で」をお読みいただき、ありがとうございます!


今回は、星莉奈と翼が二人きりで過ごす、少し特別な夜のお話でした。


いつもは冗談ばかりの翼ですが、実は彼なりに考えていることもあるようです。


北極星は、昔から旅人たちの道しるべになってきた星。


人生にも、自分だけの北極星があったら素敵ですよね。


そして星莉奈も、そんな翼の知らなかった一面に、少しだけドキッとしたようで……。


果たして、この胸の高鳴りの正体に気づく日は来るのでしょうか。


これからも二人の距離を、温かく見守っていただけたら嬉しいです。


次回もよろしくお願いします!

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