第6話 一ノ瀬悠人という男
鏡の前で、前髪を軽く整える。
黒に近いダークアッシュブラウン。普段は落ち着いた暗い色に見えるが、光が当たると柔らかなブラウンが浮かび上がる。少し横に流した前髪も、今日は悪くない。
切れ長の灰色の瞳が、鏡越しにこちらを見返している。
ネクタイを締め直し、スーツの襟を整えた。
背も高い方だし、顔立ちにもそれなりの自信はある。
……いや、それなりというのは少し謙遜しすぎか。
「よし」
最後にもう一度鏡を確認して、俺は鞄を手に取った。
今日も一日、頑張るとしよう。
*
午後六時を少し回った頃。
「一ノ瀬、さっきの資料、もうできたのか?」
「はい。共有フォルダに入れてあります。修正箇所もまとめておきました」
「おお、助かる。仕事が早いな、お前は」
「ありがとうございます」
上司が感心したように頷き、自分の席へ戻っていく。
俺はパソコンの画面を確認してから、軽く息を吐いた。
一ノ瀬悠人、二十五歳。
都内に本社を構える大手企業に勤めている。
仕事はそれなりにできる方だと思う。
同期の中でも任される仕事は多いし、上司からの評価も悪くない。
学生時代から女性に声をかけられることも多かった。
だからといって、そういうことを自慢するつもりはない。
ただ、自分に自信を持つことは悪いことじゃないと思っている。
「一ノ瀬さん、今日も残業ですか?」
隣の席から、後輩の女性社員が声をかけてきた。
「いや、今日はもう帰るよ」
「珍しいですね。何か予定でも?」
「ちょっと寄りたいところがあってね」
「えっ、デートですか?」
「残念ながら、そういうわけじゃない」
「なんだぁ。てっきり彼女でもできたのかと」
「できたら報告するよ」
「本当ですか? 絶対ですよ?」
「はいはい」
笑いながら返事をして、パソコンを閉じる。
デート、か。
そんな予定があれば、どれだけいいことか。
俺は鞄を手に取り、オフィスを後にした。
*
仕事帰りに立ち寄る場所がある。
カフェ・リアン。
駅から少し歩いたところにある、落ち着いた雰囲気のカフェだ。
店内はそれなりに広く、席と席の間にも余裕がある。
仕事の疲れを癒やすには、ちょうどいい。
コーヒーも美味いし、居心地もいい。
そして何より――。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、聞き慣れた声がした。
橘星莉奈さん。
この店の店長だ。
アッシュグレーの短い髪に、琥珀色の瞳。
初めてこの店に来たとき、正直、驚いた。
こんな綺麗な人がいるのか、と。
もちろん、外見だけじゃない。
誰に対しても丁寧で、話し方は柔らかく、ちょっとした気遣いも自然にできる。
何度か通ううちに、俺はすっかり彼女のファンになっていた。
……まあ、ファンという言い方でごまかす必要もないか。
俺は橘さんに好意を持っている。
ただ、それを本人に伝えたことはない。
「一ノ瀬さん、こんばんは」
「こんばんは。今日もお疲れさまです」
「ありがとうございます。一ノ瀬さんも、お仕事帰りですか?」
「ええ。今日は少し早く終わったので」
「そうなんですね。ゆっくりしていってください」
「ありがとうございます」
橘さんがにこりと笑う。
うん。
今日も来てよかった。
……我ながら単純だな。
「一ノ瀬様、お席はこちらでよろしいですか?」
別の店員さんが声をかけてきた。
「ああ、はい。お願いします」
案内された席に腰を下ろす。
いつもと変わらない店内。
穏やかな音楽と、コーヒーの香り。
仕事を終えた後の、この時間が好きだった。
*
「お待たせしました。ブレンドコーヒーです」
「ありがとうございます」
カップを置いてくれたのは、先ほど席に案内してくれた女性だった。
明るい茶色の髪をポニーテールにまとめた、よく笑う店員さん。
確か、田中さんだったか。
「今日はお仕事、早く終わったんですね」
「ええ。よく分かりましたね」
「いつもより少し早い時間なので」
「そんなに覚えられてましたか」
「ふふっ、常連さんですから」
「なるほど。では、そろそろ顔パスでコーヒーが出てきたり?」
「それはさすがに無理ですね」
即答だった。
「……即答ですね」
「お会計はちゃんとお願いしますね?」
「もちろんです」
思わず笑ってしまった。
なかなか遠慮のない人だ。
「でも、一ノ瀬さんっていつもきっちりしてますよね」
「そうですか?」
「はい。スーツもぴしっとしてますし」
「仕事柄、身だしなみには気をつけていますから」
「なるほど。私なんて朝、髪を結ぶだけで精一杯ですよ」
そう言って、田中さんは自分のポニーテールを軽く揺らした。
「いや、似合っていると思いますよ」
「おっ、ありがとうございます!」
随分と素直な反応だ。
褒められ慣れていないというより、単純に嬉しいことをそのまま表に出すタイプなのだろう。
「じゃあ、ごゆっくりどうぞ!」
「ありがとうございます」
田中さんは明るい笑顔を残して、カウンターへ戻っていった。
……元気な人だな。
橘さんとはまた違った雰囲気の店員さんだ。
俺はコーヒーを一口飲んだ。
うん、美味い。
*
しばらくして、店内を何気なく見渡した。
窓際では年配の夫婦が談笑している。
別の席では、若い女性が本を読んでいた。
そして、店の奥には今日も見慣れた男が座っていた。
確か、朝倉さんと呼ばれていたはずだ。
少し無造作な黒髪に、小柄な体格。
俺と同じくらいの年齢だろうか。
いつもノートパソコンに向かっているから、何かそういう仕事をしているのだろう。
何度か顔を合わせているが、まともに話したことはない。
たまに店員さんと冗談を交わしているのを見かけるくらいだ。
ずいぶん居心地がよさそうだな、とは思う。
まあ、俺も人のことは言えないか。
俺だって、仕事帰りにわざわざここまで足を運んでいるのだから。
「橘さん、すみません」
奥の席から声がした。
「はい、朝倉さん」
「コーヒーのおかわり、お願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいね」
「ありがとうございます」
それだけの、ごく普通のやり取りだった。
俺は再び手元のカップに目を落とした。
同じ店に通っていれば、自然と顔を覚えるものだ。
いつか話す機会もあるかもしれない。
そんなことを考えていると、横から声がした。
「あら、一ノ瀬さん。こんばんは」
顔を上げると、上品な雰囲気の年配の女性が立っていた。
柔らかな銀白色の髪に、淡い色のカーディガン。
この店で何度か話したことのある、山田鈴さんだ。
「山田さん、こんばんは」
「お仕事帰り?」
「はい。今日は少し早めに」
「そう。お疲れさま」
「ありがとうございます。山田さんはお買い物ですか?」
「ええ。ちょっとお散歩がてらね。帰る前に美味しいコーヒーが飲みたくなっちゃって」
「分かります。ここのコーヒー、美味しいですからね」
「ふふっ、そうでしょう?」
なぜか山田さんが得意げに笑った。
まるで自分のお店を褒められたみたいだ。
「山田さん、本当にこのお店がお好きなんですね」
「ええ、大好きよ。コーヒーも美味しいし、みんな優しいもの」
「そうですね」
「一ノ瀬さんも、すっかり常連さんねぇ」
「そうみたいです。さっきも店員さんに言われました」
「あら、いいことじゃない」
山田さんは嬉しそうに笑った。
「こうして、帰りに寄りたくなる場所があるって素敵なことよ」
その言葉に、俺は少しだけ頷いた。
「……確かに、そうですね」
「じゃあ、私はあちらに座るわね」
「はい。また」
山田さんは軽く手を振って、いつもの席へ向かっていった。
なんとも不思議な人だ。
話していると、こちらまで穏やかな気分になる。
この店には、そういう人が多い気がする。
*
時計を見ると、そろそろ帰る時間だった。
明日も仕事がある。
あまり遅くなるわけにはいかない。
カップを空にして、伝票を手に立ち上がった。
「ありがとうございました!」
会計を担当してくれたのは田中さんだった。
「今日もお仕事、お疲れさまでした」
「ありがとうございます。田中さんも、まだお仕事ですか?」
「はい! もう少し頑張ります!」
「元気ですね」
「元気だけが取り柄なので!」
「それは立派な取り柄ですよ」
「おっ、また褒めてくれましたね?」
「事実を言っただけです」
「さすが一ノ瀬さん。さらっと言いますねぇ」
田中さんが楽しそうに笑う。
……どうも、この人と話していると調子が狂う。
悪い意味ではないが。
「一ノ瀬さん」
後ろから声がした。
振り向くと、橘さんが立っていた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。ごちそうさまでした」
「またお待ちしてますね」
「はい。また来ます」
そう答えると、橘さんは柔らかく微笑んだ。
……うん。
やっぱり、いい笑顔だ。
「では、お先に失礼します」
「お気をつけて」
店を出ると、夜の空気が少しひんやりとしていた。
俺はジャケットの襟を軽く整えて、駅へ向かって歩き出す。
仕事は順調。
生活にも特に不満はない。
それなりに充実した毎日を送っていると思う。
ただ、一つだけ。
できれば、もう少し橘さんと親しくなりたい。
……いや、もう少しどころじゃないな。
できることなら、いつか二人で食事にでも行けたら。
そんなことを考えて、思わず笑ってしまった。
「……まずは誘うところからだな」
仕事の段取りなら得意な方だ。
けれど、こういうことになると、なかなか思いどおりにはいかない。
まあ、焦る必要はないだろう。
明日も仕事を頑張って、またあの店に寄ればいい。
そう思いながら、俺は夜の街を歩いていった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は少し視点を変えて、一ノ瀬悠人の日常を描いてみました。
仕事ができて、見た目にも自信がある悠人ですが、恋愛となると、なかなか思いどおりにはいかないようです。
翼とはまた違った魅力を持つ悠人のことも、少しずつ好きになっていただけたら嬉しいです。
これからも、カフェ・リアンに集まる人たちの日常を楽しんでいただけたら幸いです。
次回もよろしくお願いします。




