第5話 小さな約束
休日の午後。
俺はスーパーで買い物を済ませ、両手に買い物袋を提げて歩いていた。
今日の夕飯は何にしようか。
冷蔵庫には確か豚肉が残っていたはずだ。野菜も買ったし、適当に炒めればそれなりのものになるだろう。
……いや、適当と言いつつ、味付けには少々こだわる男である。
そんなことを考えながら、近所の公園の前を通りかかったときだった。
「……あっ!」
どこかで聞いたことのある、小さな声。
「つーくん!」
「ん?」
声のした方へ顔を向けると、小さな女の子がこちらを指さしていた。
柔らかなミルクティー色の髪。
大きな琥珀色の瞳。
「おっ、結衣ちゃん!」
「つーくーん!」
結衣ちゃんが嬉しそうに駆け寄ってくる。
その後ろから、見覚えのある女性が歩いてきた。
「朝倉さん!」
「橘さん、こんにちは」
「こんにちは。こんなところでお会いするなんて」
「俺もびっくりしました」
今日はお店で見るエプロン姿ではなく、落ち着いた色の私服を着ている。
アッシュグレーの短い髪が風に揺れ、いつもより少し柔らかい雰囲気に見えた。
「つーくん! みて!」
結衣ちゃんが何かを差し出してきた。
「お?」
その小さな手に握られていたのは、ころんと丸い黒豚のぬいぐるみ。
「おおっ! クロブタロウじゃないか!」
「うん!」
「元気にしてたか、クロブタロウ!」
俺がぬいぐるみに向かって話しかけると、結衣ちゃんは声を上げて笑った。
「えへへ! げんきだよ!」
「そうかそうか。鹿児島からはるばるやってきた甲斐があったなぁ」
「つーくんがくれたの!」
「そうだな。気に入ってくれた?」
「うん! だいすき!」
満面の笑み。
……なんだ、この破壊力。
可愛いにもほどがあるだろう。
「朝倉さん、本当にありがとうございました」
橘さんが微笑みながら言った。
「結衣、あれからずっとこの子を連れて歩いてるんですよ」
「本当ですか?」
「はい。寝るときも一緒で」
「えっ、クロブタロウ、そんなに出世したんですか?」
「出世?」
「まさか添い寝係にまで昇進してるとは思いませんでした」
橘さんが吹き出した。
「ふふっ、なんですかそれ」
「いやぁ、立派になったな、クロブタロウ」
俺はしみじみと頷いてみせる。
結衣ちゃんは意味が分からなかったのか、きょとんとしたあと、また楽しそうに笑った。
*
「つーくん、あそぼ!」
「おっ、俺と?」
「うん!」
結衣ちゃんが俺の手を引っ張る。
とはいえ、俺の両手には買い物袋。
さて、どうしたものか。
「結衣、朝倉さんはお買い物の帰りなんだから」
橘さんが優しく声をかける。
「えー……」
結衣ちゃんが少しだけ唇を尖らせた。
その顔を見てしまうと、なんとも断りづらい。
「いや、俺は大丈夫ですよ。少しなら」
「でも、お荷物もありますし……」
「急いで帰らなきゃいけないわけでもないですから」
「……すみません。ありがとうございます」
「いえいえ」
近くのベンチに買い物袋を置いて、俺は結衣ちゃんの方へ向き直った。
「よし、結衣ちゃん。何して遊ぶ?」
「おいかけっこ!」
「ほう。俺に勝負を挑むとは、なかなか勇気があるな」
「?」
「だが、俺はこう見えて足が速いぞ?」
もちろん、大嘘である。
最後に全力疾走したのがいつだったか、思い出せないくらいには走っていない。
「つーくん、おに!」
「えっ、いきなり?」
「つかまえてー!」
結衣ちゃんが笑いながら走り出した。
「よーし、待て待てー!」
俺もその後を追いかける。
結衣ちゃんは小さな足で一生懸命走っていた。
俺が少し近づくと、
「きゃー!」
と嬉しそうな声を上げる。
……これは、あれだな。
本気で捕まえにいくやつじゃない。
捕まりそうで捕まらない、その絶妙な距離感が重要なのだ。
「くっ……速い! 結衣ちゃん、速すぎる!」
「えへへへ!」
「ま、待ってくれ! 俺の足が!」
大げさによろけてみせると、結衣ちゃんはお腹を抱えて笑った。
少し離れたところでは、橘さんも口元に手を当てて笑っている。
……よかった。
ちゃんと楽しんでくれているみたいだ。
それからしばらく、追いかけっこをしたり、遊具で遊んだりした。
結衣ちゃんが滑り台を滑るたびに拍手をすると、何度も得意げな顔を見せてくれた。
そのうち俺の方が先に息切れして、ベンチに腰を下ろすことになった。
「はぁ……はぁ……」
「つーくん、つかれた?」
「いや……これは……作戦だ」
「さくせん?」
「そう。ここで休んで、次の勝負に備えるという高度な作戦……」
「ふふっ」
隣に座った橘さんが笑った。
「朝倉さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちょっと運動不足が露呈しただけです」
「結衣、元気ですからね」
「いやぁ、すごいですね。あの体力、分けてほしいくらいです」
結衣ちゃんは少し離れたところで、クロブタロウを滑り台に乗せようとしていた。
もちろん、ぬいぐるみが落ちないように、俺たちの目の届くところで遊んでいる。
「結衣ちゃん、本当に元気ですね」
「ふふっ。家でもずっとあんな感じですよ」
「毎日あの元気についていくの、大変そうですね」
「そうなんです。私一人だと、なかなか大変なこともあって」
「……一人?」
思わず聞き返してしまった。
「あ、私、今は結衣と二人暮らしなんです」
「そうだったんですね」
少し間の抜けた返事になってしまった。
……そうか。
橘さんは、結衣ちゃんと二人で暮らしているのか。
俺は勝手に、違う生活を想像していた。
「つーくん! みてみて!」
「お、おう! どうした、結衣ちゃん!」
結衣ちゃんが滑り台の上から手を振っている。
「クロブタロウもすべる!」
「おおっ、クロブタロウ選手、ついに滑り台デビューか!」
「でびゅー!」
俺は立ち上がって、滑り台の下へ向かった。
……いや、待て。
なんで俺、今ちょっと嬉しかったんだ?
別に、何かが変わったわけじゃない。
橘さんが優しい人で、結衣ちゃんが可愛い女の子なのも、昨日今日で変わったことじゃない。
ただ、俺が知らなかったことを一つ知っただけだ。
……うん。
今はそれでいいか。
「つーくん、いくよー!」
「よし! クロブタロウ選手、準備はいいかー!」
結衣ちゃんがぬいぐるみを滑らせる。
俺は下で両手を広げて待ち構えた。
「おっとっと!」
ころん、と黒豚が手の中に収まる。
「無事着地! 十点満点!」
「やったー!」
結衣ちゃんの笑い声が、公園に響いた。
*
しばらく遊んでいるうちに、空が少しずつ夕方の色になってきた。
「結衣、そろそろ帰ろうか」
「えー……」
「また遊びに来ようね」
「……うん」
結衣ちゃんは少し名残惜しそうにしながら、クロブタロウを抱きしめた。
俺もベンチから買い物袋を持ち上げる。
「朝倉さん、今日はありがとうございました」
「いえいえ。俺も楽しかったです」
「結衣もすごく楽しそうでした」
「俺も久しぶりにあんなに走りましたよ。明日の筋肉痛が怖いですけど」
「ふふっ。お疲れさまでした」
すると、結衣ちゃんが俺の服の裾をちょん、とつまんだ。
「つーくん」
「ん?」
「また、あそんでくれる?」
大きな琥珀色の瞳が、まっすぐ俺を見上げていた。
……そんな顔で聞かれたら、答えなんて一つしかない。
「もちろん。また会ったら遊ぼうな」
「ほんと?」
「ほんとほんと」
「やくそくだよ!」
結衣ちゃんが小指を差し出してくる。
「おっ、指切りか」
俺も小指を差し出した。
小さな指と、俺の指が絡まる。
「ゆーびきーりげーんまーん!」
結衣ちゃんが元気いっぱいに歌う。
俺も一緒に声を合わせた。
「うそついたら、はりせんぼんのーます!」
「ゆーびきった!」
二人で指を離すと、結衣ちゃんは満足そうに笑った。
「これで約束成立だな」
「うん!」
「朝倉さん、すみません。結衣ったら、すっかり懐いちゃって」
「いえ、嬉しいですよ」
これは本心だった。
あの日、スーパーで出会った小さな女の子。
もう一度会えただけでも嬉しかったのに、今度は一緒に遊んで、約束までしてしまった。
「じゃあ、またお店にも伺いますね」
「はい。お待ちしてます」
「つーくん、ばいばーい!」
「おう! またな、結衣ちゃん!」
結衣ちゃんは何度も振り返りながら、手を振ってくれた。
俺も二人の姿が見えなくなるまで手を振った。
*
帰り道。
さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、辺りは静かだった。
買い物袋を持ち直して、ゆっくり歩き出す。
結衣ちゃん、本当に可愛かったな。
クロブタロウも気に入ってくれていたみたいだし、お土産に選んで正解だった。
それに、橘さん。
今日はお店にいるときとは、少し違った表情を見られた気がする。
結衣ちゃんを見守る優しい顔。
俺のくだらない冗談に笑ってくれた顔。
そして――。
『あ、私、今は結衣と二人暮らしなんです』
ふと、さっきの言葉を思い出す。
……そうだったのか。
それ以上のことは聞かなかったし、聞くつもりもない。
ただ、勝手に思い込んでいたことが、一つなくなった。
それだけのはずなのに。
「……なんでちょっと嬉しいんだろうな、俺」
誰に聞かせるでもなく呟いて、思わず苦笑する。
答えは、まだ分からない。
でも、次にリアンへ行くのが、いつもより少し楽しみになっていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は、翼と結衣の再会を描いてみました。
クロブタロウもすっかり結衣のお気に入りになったようです。
何気ない会話や、一緒に遊んだ時間の中で、少しずつ変わっていく三人の距離感。
そんな小さな変化を楽しんでいただけたら嬉しいです。
次回もよろしくお願いします。




