第4話 カフェ・リアンの日常
朝のカフェ・リアンには、私の好きな時間がある。
開店前の、まだお客様のいない店内。
大きな窓から差し込む柔らかな日差しがテーブルを照らし、厨房からは食器の触れ合う音が聞こえてくる。
私はカウンターの中で、今日使うコーヒー豆の状態を確かめていた。
ふと顔にかかった髪を耳にかける。灰色がかったアッシュグレーのショートボブは、朝の忙しい時間でも邪魔にならないから気に入っている。
「星莉奈さん、おはようございます!」
明るい声とともに、田中舞ちゃんがやってきた。
「おはよう、舞ちゃん」
「今日もいい天気ですね!」
「そうね。お散歩の途中に寄ってくださるお客様も多そう」
舞ちゃんは二十四歳。
明るい栗色の髪を、仕事中はポニーテールにまとめている。揺れる毛先と、くるくると表情を変える茶色の瞳が印象的な女の子だ。
いつも元気いっぱいで、笑うとこちらまでつられて笑顔になってしまう。
「今日も頑張りましょうね!」
「ふふっ。頼りにしてるよ」
「任せてください!」
舞ちゃんは嬉しそうに笑って、テーブルの準備に取りかかった。
ほかのスタッフたちも、それぞれの持ち場で開店準備を進めている。
テーブルを拭く音。厨房から漂う焼きたてのパンの香り。
少しずつ、リアンが一日の顔になっていく。
この店を開いたのは、一年ほど前のことだ。
自分の好きなコーヒーを、誰かにも好きになってもらいたい。
慌ただしい毎日の中で、少しだけ肩の力を抜ける場所を作りたい。
そんな思いで始めたお店だった。
店内にはゆったりとテーブルを配置していて、窓際には外の景色を眺められる席もある。
奥には、長い時間を静かに過ごしたいお客様が好む席もあった。
おかげさまで常連のお客様も増え、スタッフにも恵まれている。
まだ街中の誰もが知るような有名店ではないけれど、私は今のリアンが好きだった。
「星莉奈さん、そろそろ開店ですね」
「うん。今日もよろしくね」
「はい!」
入口の札を、営業中へと裏返した。
今日も、いつもの一日が始まる。
◇
「あら、おはよう」
開店してしばらくすると、聞き慣れた声がした。
「あっ、鈴さん! おはようございます」
山田鈴さん。
柔らかな銀白色の髪を、耳元でふんわりとまとまるショートボブに整えた女性だ。
今日は淡い紫色のカーディガンを羽織っている。優しい焦げ茶色の瞳と、微笑むたびに深くなる目尻の笑いじわが印象的だった。
七十代とは思えないほどおしゃれで、いつもどこか楽しそうな雰囲気をまとっている。
リアンの常連さんで、私も舞ちゃんも鈴さんが来てくださるのを楽しみにしている。
「今日はお早いですね」
「そうなのよ。朝から目が覚めちゃってねぇ」
「ふふっ。いつものお席、空いてますよ」
「あら、嬉しいわ」
鈴さんは窓際の席へと歩いていく。
私はお水を運びながら声をかけた。
「ご注文はいつものでよろしいですか?」
「ええ、お願いね」
「かしこまりました」
鈴さんは、注文したコーヒーが届くまでの間、窓の外を眺めていた。
その横顔がなんだか楽しそうで、つい尋ねてしまう。
「何かいいことがあったんですか?」
「あら、どうして?」
「なんとなく、嬉しそうだったので」
「ふふ。いいお天気だなぁって思っていただけよ」
そう言って鈴さんは笑った。
「こういう日は、どこかへ出かけたくなるわねぇ」
「鈴さんは、どこか行きたい場所があるんですか?」
「そうねぇ。海なんかいいわね」
「海、いいですね」
「でも、一人で遠くまで行くのは少し面倒でね。結局ここに来ちゃうの」
「ふふっ。いつでも大歓迎ですよ」
「あら、ありがとう」
鈴さんは嬉しそうに微笑んだ。
こういう何気ない会話が、私は好きだ。
コーヒーを飲むためだけじゃなく、ここで過ごす時間そのものを楽しんでもらえる。
そんなお店でありたいと思っている。
◇
お昼前になると、少しずつお客様が増えてきた。
厨房ではスタッフがランチの準備を進め、舞ちゃんは注文を取りながら店内を軽やかに動き回っている。
「星莉奈さん、三番テーブルのお料理、お願いします!」
「はーい!」
料理を運び終えてカウンターへ戻ると、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、背の高い男性が立っていた。
「こんにちは、橘さん」
「一ノ瀬さん。こんにちは」
一ノ瀬悠人さん。
すらりとした長身に、整った顔立ち。
黒に近いダークネイビーの短い髪は、前髪を軽く横に流している。切れ長のグレーの瞳が涼しげで、きちんと着こなしたスーツがよく似合う男性だ。
お仕事の合間によく立ち寄ってくださる常連のお客様で、いつも落ち着いた雰囲気をまとっている。
「今日は少し早いんですね」
「ええ。午後から予定があるので、その前に寄ろうと思いまして」
「ありがとうございます。お席へどうぞ」
一ノ瀬さんは店内を見渡してから、カウンターに近い席へ腰を下ろした。
「橘さん、今日のおすすめは?」
「今日はチーズケーキがおすすめですよ」
「じゃあ、それとコーヒーを」
「かしこまりました」
注文を受けて戻ると、舞ちゃんが小さく声をかけてきた。
「星莉奈さん、私、ケーキ持っていきますね」
「ありがとう。お願いしてもいい?」
「もちろんです!」
舞ちゃんはお皿を受け取り、一ノ瀬さんの席へ向かった。
「お待たせしました!」
「ああ、ありがとう」
「ごゆっくりどうぞ!」
いつもの明るい声が店内に響く。
私はその様子を見ながら、次のコーヒーを淹れる準備を始めた。
◇
午後になり、店内が少し落ち着いた頃だった。
入口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
「あ、橘さん。こんにちは」
「朝倉さん!」
朝倉翼さん。
少し無造作に伸びた黒髪と、どこか親しみやすい雰囲気が印象的な男性だ。
背はそれほど高くなく、服装もいつも気取らない。
いつもノートパソコンを持って来店される、リアンの常連さん。
静かにお仕事をされていることが多いけれど、話してみると気さくで、少しお茶目なところもある。
そして先日、スーパーで迷子になった結衣を助けてくださった人でもある。
「今日はお仕事ですか?」
「はい。いつもの場所、空いてます?」
「もちろんです」
「よかった。あそこ、落ち着くんですよね」
「ふふっ、ありがとうございます」
朝倉さんは奥の席へ向かおうとして、ふと思い出したように立ち止まった。
「あ、そうだ。橘さん」
「はい?」
「これ、よかったら」
差し出されたのは、少し大きめの紙袋だった。
「えっ、なんですか?」
「ちょっと鹿児島に旅行してきたんです。かすたどんっていうお菓子なんですけど、スタッフの皆さんでどうぞ」
「わあ! ありがとうございます!」
「人数分あると思うんですけど、足りなかったらすみません」
「いえいえ、そんな! みんな喜びます」
紙袋を受け取ると、朝倉さんはもう一つ、小さな袋を取り出した。
「あ、それと……これも」
「?」
「よかったら、結衣ちゃんに」
「えっ、結衣にまで?」
「はい。お土産屋さんで見つけたんですけど、なんか喜びそうだなって」
袋の中をそっと覗く。
そこには、ころんと丸い、小さな黒豚のぬいぐるみが入っていた。
「可愛い……!」
「クロブタロウっていうらしいです」
「クロブタロウ……ふふっ、可愛い名前ですね」
「ですよね。なんか妙に気になっちゃって」
朝倉さんは少し照れくさそうに笑った。
「結衣ちゃん、ぬいぐるみ好きですかね?」
「はい。きっと喜びます」
「ならよかった」
「ありがとうございます、朝倉さん。結衣にも渡しておきますね」
「はい。よろしくお願いします」
そう言って朝倉さんは、いつもの席へ向かっていった。
ノートパソコンを取り出し、慣れた手つきで仕事の準備を始める。
私は二つの袋を持って、カウンターへ戻った。
「星莉奈さん、それなんですか?」
舞ちゃんが紙袋を覗き込んでくる。
「朝倉さんからのお土産。鹿児島に行ってきたんですって。スタッフの皆さんでどうぞって」
「えっ、かすたどんですか! やったぁ!」
「ふふっ。あとでみんなにも伝えてね」
「はい!」
舞ちゃんは嬉しそうに頷いたあと、私の手元の小さな袋に気づいた。
「あれ、そっちは?」
「これは結衣にって」
「へえ、可愛いぬいぐるみですね!」
「うん。きっと喜ぶと思う」
舞ちゃんが私の顔を見て、にこっと笑った。
「星莉奈さん、なんだか機嫌よさそうですね」
「えっ、そう?」
「はい」
「ふふっ、そうかもね」
私は小さな袋を大切にしまってから、コーヒーカップを手に取った。
朝倉さんの注文は、いつもの深煎りコーヒー。
今日も、リアンにはコーヒーの香りが漂っている。
窓際では鈴さんが本を読み、カウンターの向こうでは舞ちゃんが楽しそうに働いている。
奥の席では、朝倉さんが真剣な顔でパソコンに向かっていた。
いつもと変わらない、カフェ・リアンの午後。
私はそんな店内を見渡してから、淹れたてのコーヒーをトレーに載せた。
「朝倉さん、お待たせしました」
「ありがとうございます、橘さん」
朝倉さんはパソコンから顔を上げ、いつものように笑った。
私も笑顔を返して、次のお客様のもとへ向かう。
今日もまた、カフェ・リアンの一日がゆっくりと過ぎていく。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は星莉奈の視点から、カフェ・リアンの何気ない一日を描いてみました。
新しく登場した舞や悠人、鈴さんも含めて、少しずつこのお店の雰囲気を好きになっていただけたら嬉しいです。
これからも、カフェ・リアンで過ごす人たちの日常を温かく見守っていただけたら幸いです。
次回もよろしくお願いします。




