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第3話 小さな出会い

「結衣!」


 聞き覚えのある女性の声が、スーパーの案内所に響いた。


 振り返ると、一人の女性がこちらへ駆け寄ってくる。


「結衣! よかった……!」


「ママ!」


 女の子は顔をぱっと明るくすると、女性のもとへ走っていった。


 女性はその場にしゃがみ込み、小さな体をぎゅっと抱きしめる。


「もう……どこに行ってたの……!」


「ごめんなさい……」


「心配したんだから……!」


 震える声だった。


 その様子を少し離れた場所から眺めながら、翼はほっと息を吐いた。


「……よかった、よかった」


 これで一件落着。


 そう思って、その場を離れようとしたときだった。


「あの!」


 女性に呼び止められた。


「はい?」


 振り返った翼は、思わず目を丸くした。


「あれ……橘さん?」


「えっ……朝倉さん?」


 そこにいたのは、翼がよく通うカフェ・リアンの店長、橘星莉奈だった。


「え、結衣ちゃんって橘さんの娘さんだったんですか?」


「はい……! あの、この子を助けてくださったのって……」


「ああ、はい。たまたま迷ってるところを見かけたんで」


 翼は軽く笑った。


「いやぁ、びっくりしました。まさか橘さんのお子さんだったとは」


「本当に……ありがとうございます」


 星莉奈は深々と頭を下げた。


「私、買い物している間に少し目を離してしまって……気づいたらいなくなっていて……」


「そうだったんですね」


「もう、どうしようかと……」


 言葉の途中で、星莉奈の声が小さく震えた。


 翼は少し困ったように笑う。


「でも、ちゃんと会えたじゃないですか」


「……はい」


「それに結衣ちゃん、すごくいい子でしたよ」


「え?」


「知らない人についていっちゃダメって、ちゃんと言ってましたから」


 星莉奈が驚いたように結衣を見る。


「結衣……」


「ママが、言ったもん……」


 結衣は母親の服をぎゅっと握りながら、小さな声で答えた。


 その姿に、翼は思わず笑みをこぼした。


「だから、ちゃんと教えてもらってるんだなって思いました」


「……ありがとうございます」


 星莉奈はもう一度、今度は少しだけ柔らかく微笑んだ。


 その笑顔を見て、翼も安心した。


「じゃあ、俺はこれで」


「あ、朝倉さん!」


「はい?」


「本当にありがとうございました。また、お店でもお待ちしていますね」


「もちろんです。またコーヒー飲みに行きます」


 翼がそう答えると、星莉奈は結衣の肩にそっと手を置いた。


「結衣。お兄さんに、ありがとうは?」


 結衣は母親を見上げ、それから翼のほうを向いた。


「……おじちゃ――」


「ちょっと待った!」


 翼は反射的に声を上げた。


 おじちゃん。


 いつかそう呼ばれる日が来ることは、もちろん分かっている。


 だが、しかし。


 まだ心の準備ができていない。


 少なくとも、今日この瞬間に受け入れる覚悟はなかった。


 翼は結衣の前にしゃがみ込み、できるだけ真剣な表情を作った。


「結衣ちゃん。ひとつお願いがある」


「……なあに?」


「俺のこと、つー君って呼んでくれない?」


「つーくん?」


「そう! つー君!」


 結衣は不思議そうに首をかしげた。


 そして。


「……つーくん!」


「よし!」


 思わずガッツポーズをする翼。


 その様子を見ていた星莉奈が、とうとう吹き出した。


「ふふっ……朝倉さん、そんなにおじちゃんって呼ばれるのが嫌なんですか?」


「いや、嫌っていうか……まだ受け入れる準備が整ってないんですよ」


「ふふっ、準備って……」


「俺にとっては結構大事な問題なんです!」


 星莉奈はもう一度笑った。


 その笑顔につられるように、結衣も楽しそうに笑い始めた。


「そういえば、結衣ちゃんって何歳?」


「よんさい!」


 結衣は小さな指を一生懸命に四本立てて見せた。


 ミルクティー色の柔らかな髪が、ふわりと揺れる。


「おお、四歳か! もうお姉さんだな!」


「えへへ!」


 褒められたのが嬉しかったのか、結衣は得意げに笑った。


 琥珀色の瞳がきらりと輝いて、どこか星莉奈によく似ていた。


 ――ああ、やっぱり親子なんだな。


 翼はそんなことを思いながら、自然と笑みをこぼした。


「つーくん!」


「ん?」


「ありがとう!」


 翼は少しだけ目を丸くして、それから優しく笑い返した。


「どういたしまして」


 その笑顔を見て、翼はなんとなく嬉しくなった。


 ――子どもって、やっぱりかわいいな。


 そんなことを思いながら立ち上がる。


 ふと、買い物かごに入れたお菓子が目に入った。


 翼は少し考えてから、そのままレジへ向かった。


 会計を済ませ、三人はスーパーを出た。


 どうやら帰る方向が同じらしく、駅まで一緒に歩くことになった。


 夕方にはまだ少し早い時間。


 通りには、穏やかな日差しが降り注いでいた。


「朝倉さんって、子どもがお好きなんですね」


 隣を歩く星莉奈が言った。


「んー、まあ好きですね」


「結衣も、すっかり懐いちゃって」


「そうですかね?」


「はい。こんなに楽しそうにしているの、ちょっと珍しいかもしれません」


「え、そうなんですか?」


「最初は人見知りする子なんですけど……」


 星莉奈は少し前を歩く結衣に目を向けた。


 結衣は時折振り返りながら、楽しそうに歩いている。


「朝倉さんには、すぐに心を開いたみたいですね」


「それは嬉しいですね」


 翼は照れくさそうに笑った。


「まあ、俺が子どもっぽいだけかもしれませんけど」


「ふふっ、そんなことないですよ」


 星莉奈が笑う。


 その少し前を歩いていた結衣が、突然振り返った。


「つーくん!」


「おう!」


「またあえる?」


 突然の質問だった。


 翼は少し考えてから答えた。


「そうだなぁ。お母さんのお店に行ったら、また会えるかもしれないな」


「ママのおみせ?」


「うん。俺、よくコーヒー飲みに行くんだ」


 結衣は星莉奈を振り返った。


「ママ! つーくん、またくる?」


「ふふ。そうね、きっとまた来てくれるよ」


「やったぁ!」


 嬉しそうにはしゃぐ結衣を見て、翼は思わず笑った。


 やがて駅が見えてきた。


「じゃあ、俺はこっちなんで」


 翼が立ち止まる。


「あ、そうだ」


 買い物袋を覗き込む。


 そこには、先ほど何となく手に取ったお菓子が入っていた。


「結衣ちゃん、お菓子好き?」


「すき!」


「そっか。じゃあ、これあげる」


 翼は袋からお菓子を取り出した。


「はい。今日頑張ったご褒美」


 結衣の目が輝いた。


「わあ……!」


 けれど、すぐには受け取らない。


 ちらりと星莉奈を見上げる。


「……ママ、いい?」


 星莉奈は少し驚いたように翼を見た。


「朝倉さん、そんな……」


「いいんですよ。俺が勝手に買っただけなんで」


「でも……」


「それに、結衣ちゃんが笑ってくれたお礼です」


 翼がそう言うと、星莉奈は少しだけ考えてから、結衣に微笑んだ。


「……じゃあ、ちゃんとありがとうしようね」


「うん!」


 結衣は両手でお菓子を受け取った。


「つーくん、ありがとう!」


「おう! どういたしまして!」


 翼は笑いながら手を振った。


「朝倉さん」


「はい?」


 星莉奈が、改めて翼に向き直った。


「今日は本当にありがとうございました」


「いえいえ。気にしないでください」


「……また、お店で」


「はい。また寄らせてもらいます」


 星莉奈が微笑む。


 その隣で、結衣が大きく手を振った。


「つーくん! ばいばーい!」


「おう! またな、結衣ちゃん!」


 翼も大きく手を振り返した。


 二人の姿が駅の向こうへ消えていく。


 翼はしばらく、その方向を眺めていた。


「……つー君、か」


 自分でお願いした呼び名なのに、なんだか少し照れくさい。


 思わず笑みがこぼれた。


 それにしても、驚いた。


 まさか橘さんに、あんな小さな娘がいたなんて。


 今まで家族の話なんてしたことがなかったから、全然知らなかった。


「……そっか」


 翼はふと考えた。


 橘さん、結婚してるんだよな。


 まあ、そうだよな。


 あんなに綺麗で、優しい人なんだから。


 結婚していたって、何も不思議じゃない。


「……なんだ」


 思わず口からこぼれた言葉に、自分でも首をかしげる。


 なんだ、って何だよ。


 別に何かを期待していたわけじゃない。


 ただの行きつけのカフェの店長。


 それだけの関係だ。


 ……なのに。


 ほんの少しだけ、残念に思っている自分がいた。


「……帰るか」


 翼は買い物袋を持ち直し、歩き出した。


 いつもと変わらない帰り道。


 ただ、今日という日は、少しだけ特別だった。


 自分のことを「つー君」と呼ぶ、小さな女の子ができた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。この話は、何でもない一日の中に、あとから振り返ると小さく光って見える瞬間を、そっと拾いたくて書きました。うまく言えない気持ちのまま、ページを閉じてもらえたら、それで十分です。またふと思い出したときに、覗きに来てください。

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